衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2023年10月16日    月曜日     第1 回の開示 合計4034回の開示

命終の時、如来蔵はどのように色身から徐々に離脱するのでしょうか?

色身は如来蔵内の四大の種子によって形成されたもので、死に際して色身内の四大の種子は散じて戻り、再び生じる必要がなくなるため、色身は滅して機能を継続できなくなります。臨終時に四大の種子が分解分散し、如来蔵中で復位する過程は一瞬で完了するものではなく、善悪の業によって待機時間が異なります。四大の分解とは、色身上の四大の種子が徐々に色身から退出し、色身の作用が段階的に失われ、次第に硬化していくことを指します。この過程を便宜的に「如来蔵が色身から退出し、もはや色身を保持せず、色身は生命力を失う」と表現します。実際には如来蔵が退いたり変化したりするのではなく、如来蔵中の色身が変化するのです。

如来蔵は形も相もなく、その色身への進入や退出の様子を誰も見ることはできません。四大の種子も同様に無形無相であり、四大の種子が色身を形成し退出して分解する様子を見ることはできず、ただ色身の変化を観察するのみです。色身の変化から、種子の変化作用と如来蔵の機能作用を推察できます。色身に如来蔵の維持作用があれば寿・暖・識が存在し、如来蔵の保持がなければ寿暖識は存在しません。臨終時には寿命が徐々に消滅し、体温が次第に失われ、冷たさと硬化が進み、識心は漸次微弱化して消滅し、心はますます昏沈し、ついに無知無覚の状態に至り、中有の身に入ります。如来蔵が最終的に色身を離れる部位、つまり四大が最後に分解する場所、寿命が最終的に留まる場所、体温が最後に消える部位が、来世に生まれる業道を決定します。これが身体の最終分解部位であり、上方であればあるほど来世の業道は善に、逆であれば悪に向かいます。

衆生が見えない法こそ真実であり、見える法は虚妄です。虚妄を見て真実を見ないことを無明と称します。もし時処を選ばず真実を見るならば、世間事は何も存在せず、一切皆空で一法も情に当たるものなく、世間も存在せず、心は全て自性に回帰し、智慧を具足して智と名付けられます。智は情ではなく、情あるところに智はありません。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

内六塵は電気信号か、それとも画像か?

次の記事 次の記事

連なる五蘊身の仕組みを解明する

ページのトップへ戻る