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日常法話

2023年10月15日    日曜日     第1開示 合計4033開示

内六塵は電気信号か、それとも画像か?

<h2 style="text-indent: 2em;">問:光が目に入り、目の内部の感光細胞が光源を電気信号に変換した後、電気信号は視神経を通って大脳皮質の視覚中枢に伝達されますが、その次は何が電気信号を画像にデコードするのでしょうか?</h2>

答:電気信号とは何でしょうか。電とはエネルギーのことであり、信号とは粒子のことであり、その二者はいずれも四大種子の組み合わせ体です。私たちの六識が見る内六塵は、いずれも四大種子によって形成された微粒子であり、一定のエネルギーを有し、便宜的に電気信号と呼ぶことができます。もし内六塵が電気信号であるならば、外六塵は何でしょうか。内外の六塵はどのような形態で顕現しているのでしょうか。外六塵も同様に四大種子によって形成された微粒子であり、実質的な色法の相状はなく、同様に一定のエネルギーを有するので、やはり電気信号と呼ぶことができます。それゆえ、内外の六塵はいずれも電気信号の形で顕現しているのです。ただし、内外六塵の電気信号には区別があります。外六塵は如来蔵が四大種子によって虚幻に形成したものであり、偽りであり、鏡の外の相のようなものです。一方、内六塵は伝導によって変異した電気信号であり、偽の上の偽、幻の上の幻であり、鏡の中の像のようなものです。

光が勝義根である眼根のところに入ったとき、もし意根が攀縁し了別しようとすれば、眼識と意識が生じ、その二者が共に光の電気信号を了別し、電気信号は色相の形で二つの識心の中に顕現します。どの識が了別すれば、どの識の心中に対応する相が現れるのです。それゆえ、六識が塵境を了別するのであって、デコードのことは関わりません。あえてデコードと呼ぶならば、それは四大微粒子にある相状と相貌があると誤認し、相状と相貌を真実の存在と誤認して、執取するということです。

たとえば、小さな子供が山ほどの小さな部品でパズルを組み、部品を実物に変え、さらにその実物を執取して、貪愛してやまないようなものです。四大種子も同様に部品に相当し、六塵の境界はパズルに相当します。六識が塵境を識別すると、四大微粒子をパズルのように組み合わせて六塵の境界とし、さらに執取して貪愛するのです。まるで子供のままごとのようで、きわめて幼稚なことです。この一連の流れをすべて実証すれば、万法はことごとく無く、ただ一つの空の如来蔵だけが残りますが、それを執取することもなく、そこで家に帰り着いて成仏するのです。万法がことごとく無いのであれば、私たちは毎日そんなに多くの事をやって何になるのでしょうか?

——生如法師の開示
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命終時に如来蔵(tathāgatagarbha)はどのように少しずつ色身から退出していくのか?

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