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日常法話

2023年10月13日    金曜日     第1開示 合計4032開示

一切法が如来蔵性であることを如何に思惟するか

『楞厳経』において世尊は繰り返し説かれている、五蘊十八界はすべて如来蔵の性質であり、自然の性質ではなく、因縁による性質でもないと。自然の性質でなく、因縁による性質でもないということは、よくよく思惟すれば理解できるが、しかし如来蔵の性質は非常に理解しがたい。たとえ如来蔵を証得したとしても観察することは難しく、理解も容易ではない。

形も相もない四大種子が最も微細な粒子を構成し、その粒子がさらに集まってやや大きめの粒子を形成する。その後も四大種子は絶えず粒子を構成し、粒子が集積を続けることで、最終的に肉眼で見える物質的な色法が形成される。無から有へ、空なる無形の種子から有形の極微粒子へ——この無からの創造過程そのものが非常に神秘的であり、まさに魔術のようである。ゆえに如来蔵こそが魔術師のような存在だと説かれるのである。

如来蔵が四大種子を出力すると言われるが、実質的に四大種子は如来蔵の外に出ておらず、構成された粒子も如来蔵の外に出ていない。形成された物質的な色法も如来蔵の外には存在しない。色身は如来蔵の中で生滅を繰り返しており、如来蔵の外に出ることはない。如来蔵に形や相が無い以上、色身が形や相を持つはずがない。では色身は一体どのような状態なのか?もし物質的な色法に生じるものがあると言うなら、それは必ず如来蔵から離脱し、如来蔵の外に単独の形相として現れねばならない。四大種子が如来蔵の外に出るとすれば、四大種子が滅した後は如来蔵に戻るはずだが、四大種子は無形であるのに、どうして有形の物質を生み出せるのか?有と無の間はどのように変換されるのか?如来蔵の外で物質はどのように存在し変化するのか?誰が物質を依托するのか?

四大種子は形も相もなく粒子を構成し、粒子が集積してより大きな粒子を形成する。四大種子は絶えず粒子を構成し、粒子は集積を続け、最終的に色身が現れる——有形有相でありながら無生であり、如来蔵の外に出ることはない。四大種子が如来蔵の外に出なければ、色身も如来蔵の外に出られない。もし四大種子が如来蔵を離れて粒子を形成するなら、四大種子は如来蔵を離れた後、いかにして機能作用を持つのか?誰がそれらに与えたのか?種子が如来蔵を離れていかに運営されるのか?無形から有形はどう創造されるのか?色身が如来蔵の外に出た場合、いかに存在し変化するのか?誰がそれを依托するのか?死の時には四大が分離し、種子は如来蔵に戻るが、いかにして戻るのか?もし種子が如来蔵の外に出ないなら、如来蔵に戻ることも論じられない。元来すべては如来蔵自身が遊び、自らゲームを仕組み、自ら魔術を見せているのであり、自ら楽しみ自ら愉しむのである。

識の種子が生じて識心を形成するが、識の種子が如来蔵の外に出なければ、識心も如来蔵の外に出ない。如来蔵を離れれば種子はなく、如来蔵を離れれば識心もなく、識心の心所法もなく、受想行識もない。もし受想行識が如来蔵の中で運営され、生滅を繰り返し乱れ起き乱れ滅するならば、色受想行識はすべて如来蔵の家の中の事柄であり、幻化も家の外に幻化せず、如来蔵が独り占めし、自ら楽しみ自ら愉しむのである。

一切の法は如来蔵の外に出たことがない。ゆえに無生であり、また如来蔵に戻ることもない。ゆえに無滅である。世の中には何の現象もなく、世間もなく、何もなく、何も存在せず、それなら一日中眠り続けよう。しかし一体誰が眠るのか?如来蔵の中の規則や法則はあまりにも神秘的であり、理解しなければおそらく安眠もできないであろう。


——生如法師の開示
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