問:光が目に入り、眼球内部の視細胞が光源を電気信号に変換した後、その電気信号が視神経を通って大脳皮質の視覚中枢に伝達されます。では、その後の電気信号を画像に解読するのは何でしょうか。
答:電気信号とは何を指すのでしょうか。電とはエネルギーの意味であり、信号とは粒子の意味です。いずれも四大種子の集合体にほかなりません。我々の六識が認識する内六塵はすべて四大種子によって形成された微粒子であり、一定のエネルギーを有しているため、便宜的に電気信号と呼ぶことができます。もし内六塵が電気信号であるなら、外六塵とは何でしょうか。内と外の六塵はいずれもどのような形態で現れているのでしょうか。外六塵も同様に四大種子によって形成された微粒子であり、実体ある色法の相状は存在せず、同様に一定のエネルギーを有しているため、電気信号と呼ぶこともできます。したがって、内と外の六塵はいずれも電気信号の形態で現れているのです。ただし、内と外の六塵の電気信号には区別があります。外六塵は如来蔵が四大種子を用いて幻のように形成したものであり、偽りの存在、すなわち鏡の外に映る像のようなものです。一方、内六塵は伝達され変異を遂げた電気信号であり、偽の上にさらに偽を重ねたもの、幻の上にさらに幻を重ねたものであり、鏡の中に映る像のようなものです。
光が勝義根である眼根に到達したとき、もし意根が縁取し了別しようとすれば、眼識と意識が生起します。この二つが共同して光の電気信号を了別すると、電気信号は色相の形となって二つの識心の中に現れます。どの識が了別するかによって、その識の心の中に対応する相が現れるのです。したがって、六識が塵境を了別する過程に、解読という行為は関与していません。もしどうしてもこれを解読と呼ぶならば、それは四大の微粒子を一定の相状や相貌を持つものと誤認し、その相状や相貌を実在するものと誤認して執着することを意味します。
例えるなら、子供が小さな部品のパズルを使って、部品を実物に組み立て、その後その実物に執着し、貪り愛してやまないようなものです。四大種子は同様に部品に相当し、六塵境界はパズルに相当します。六識が塵境を識別すると、四大の微粒子を六塵境界というパズルに組み立て、その後それに執着し貪り愛するのです。まるで子供のままごと遊びのように、非常に幼稚な行為です。この一連の流れをすべて実証できたならば、万法はことごとく空であり、ただ一つの空如来蔵だけが残ります。しかし、それすらも執着することはなく、そうして悟りの境地に至り仏となるのです。万法がことごとく空であるならば、我々は毎日なぜそれほど多くのことに忙殺されるのでしょうか。
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