ある資料によると、脳は毎秒大量の情報を受け取りますが、実際に処理できるのはごく一部です。もし全ての情報を処理しようとすれば、脳は過負荷状態に陥ります。正常に機能するため、脳は自動的に情報をフィルタリングし、自身に関係のない些細な情報を無視し、重要な情報のみに焦点を当てます。人それぞれ関心の対象が異なるため、同じ情報に対しても見える現象が異なり、態度や対応方法も変わってきます。問題に直面した際、要点と主題を如何に記憶し、智慧を高めて解決に至るか。その鍵は、問題の核心と重点、解決方法を指し示す質問を能動的に脳に投げかけることです。こうすることで脳はその方向性に沿って思考を巡らせ、問題を解決するのです。
「脳」とは何を指すのでしょうか。世俗の人々は脳が色法であり識心の機能を持たないことを理解しておらず、彼らの言う「脳」は一般に意根を指しています。大量の情報を受け取り選択的に処理するのは意根であって、脳でも意識でもありません。この段階では意識はまだ現れておらず、情報はすべて意根に落ち着きます。意根は全ての情報に対処する能力も精力も持たないため、有用で重要な情報を選別しなければなりません。選択が終わって初めて意識が現れ、意根を補佐するのです。
意根が一切法の性質を黙って包容し、一切法に対して主導性を発揮することはここから明らかです。一切法には当然色声香味触法の五塵と六塵が含まれます。もし意根が法塵のみに触れ五塵に触れないなら、五塵の情報はどこに落ち着くのでしょうか。誰が受け取り選別するのでしょうか。意根が五塵を予備選別した後、五識が生じて五塵を識別処理するため、意根は五塵と五識に対して選択と処理の権限を有するのです。
情報を自動的に濾過し、自己に関連する有用な情報に自動的に注目するのは意根です。これは大量情報に対する第一次選別段階であり、この時点では意識はまだ現れておらず、意根の活動や一切の情報に対して無知無覚です。従って意識は参与も選択も主導もできず、意根から与えられた情報を受動的に受け入れるのみで、意根の支配と調整を受けるのです。もし意根が情報を濾過選別しなければ、大量の情報に対処できず崩壊さえ招きます。選別後も残る情報は膨大で、全てに対応するのは困難です。このため意根は極めて多くの法を同時に縁とし、情報に対処する精力を集中できず、智慧がないように見えるのです。
如何にして意根に智慧を生起させるか。それは不断に無用な情報を濾過削減し、ただ当座に処理すべき情報のみに作意し、他を顧みないことです。こうして精力が集中すれば、作意した情報を智慧をもって処理できます。しかし精力を集中させるのは容易ではなく、不断に禅定を修練して意根を一法にしっかり定めて思考させる訓練が必要です。
重要な情報と主題を記憶し、注目して考量するのも意根です。これは一切の情報を受け取る主導識の機能作用であり、意根がこれらの機能を発動させる時、意識は全く気付かず参与できません。意根が情報を記憶して初めて、如何に処理するかを考量し、放棄するか深く了別するかを決定します。深い了別を望む場合、六識が現れてこれらの情報を了別し、了別後に意根が再び如何に対処するかを選択するのです。ここから各段階で決定と主導を行うのは常に意根であり、具体的な了別と分析は六識が担い、六識は意根に従属することが分かります。
誰が脳に質問を投げかけるのでしょうか。意識が意根に質問を提起し、意識が意根に大量の情報を考量・選択・処理させ、重点と有用な情報に注目させようとするのです。質問という行為は意根にはできません。質問には無言の言語・文字・音声が含まれ、意根はこれに相応しないからです。意根は意識に暗示を与えるのみで、意識は知らず識らず指示を受けるのです。世俗の人々が描写する「情報を受け取り処理する脳」とは意根を指し、一時的に情報を保存するのは勝義根です。意根は勝義根中の法に触れ、知り、処理できます。『楞厳経』に説かれる「意根が黙して一切法を容れる」ことと意根の広汎な攀縁性が、この資料に充分に示されているのです。
意根は忙しいのでしょうか。受動的に大量の情報を受け取るのか、能動的に受け取るのか。能動と受動の両面があります。能動的な情報受容を広汎な攀縁と呼び、受動的受容は業種が成熟したため如来蔵が顕現し伝達せざるを得ない状況、例えば疾病や交通事故などの情報を指します。これらは避けられません。能動的思考は受動的受容よりも智慧を高めます。では誰が質問し、誰が思考し、誰が問題を解決し、誰が智慧を高めるのか。解決すべき問題を知れば、誰が解決すべきかが分かります。情報の選別と注目の問題を解決するのは、意根の職責なのです。
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