衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年09月24日    日曜日     第1開示 合計4020開示

一切法の生住異滅は業種による主宰です

衆生が無量劫の生死輪廻において、いったい誰が主宰しているのでしょうか。ある者は如来蔵が主宰していると言い、ある者は意根が主宰していると言います。この二つの説はいずれも正しいと言えます。如来蔵は主宰しないという受動的な主宰者であり、如来蔵には何かを主宰しようとする心がないため、能動的に衆生を無量劫の生死輪廻に導くことはありません。しかし、結局のところ如来蔵が一切の法と生死輪廻を現出させているため、如来蔵もまた衆生の生死輪廻の主宰者と言えるのです。一方、意根には心の働きを主宰する性質があり、衆生の生死輪廻において能動的に主宰し、その心と業が一切の法と生死輪廻を主宰しています。

私の見解では、衆生の生死輪廻は業種が主宰し、支配しています。業種が主宰するということは、即ち如来蔵が主宰することを意味します。なぜなら、如来蔵が業種を収蔵し放出し、業種に基づいて衆生の因縁果報を実現するからです。したがって、業種が主宰することは実質的に如来蔵が主宰することであり、如来蔵が主宰することは業種が主宰することなのです。業種自体には能動性がなく、主人公ではないものの、実際には主導的な役割を果たしています。

業種が主宰することは同時に意根が主宰することでもあります。意根は業種と相応し、どのような業があればどのような意根が生じ、どのような意根があればどのような業が生じます。両者は互いに一致しており、意根が好まない業種も多く存在しますが、結局は意根が主宰して造り出したものです。意根が主宰したいと思う事柄は数多くありますが、それには相応する業種と業縁が必要です。相応する業種がなければ、意根も主宰できず、業種に流されるしかありません。したがって、業種が主宰することは即ち意根が主宰することであり、意根が主宰することは業種が主宰することなのです。業種は如来蔵と意根を統一し、両者とも主宰しながらも主宰しないという性質を持ちます。如来蔵は業種に従って一切の法を生じさせる受動的な主宰者であり、意根は能動的に主宰するものの、やはり業種に順応し符合しています。ゆえに、一切の法は依然として業種が決定権を持っているのです。

業種が決定権を持っているとはいえ、もし意根の願力が非常に強大であれば、業種を超越して願力が主宰し、願力に従って一切の法が現出することも可能です。例えば、阿羅漢が四禅定を修得した後、本来なら命終の時に通常通り死亡して世を去るはずであったものが、今や時期を前倒しまたは延期して逝去し、寿命を阿羅漢自身が決定できるようになります。この時は意根が主宰しているか、あるいは意根の願力が主宰していると言えます。しかし、仔細に分析すれば、やはり業種が主宰しているのです。なぜなら、四禅定を修得することで業種が変化し、業種が変化すれば果報も変化し、生死が自在になるため、あたかも意根が主宰できるかのように見えるのです。

実際のところ、意根は刻一刻、生々世々において業種と相応しており、一切の法は依然として業種が主宰し、業種がその生住異滅を決定しています。衆生の六道輪廻は本来、業種によって決定されるものです。修行を通じて大いなる清浄な願いを発すれば業種が変化し、果報も変化します。表面的には意根が主宰しているように、意根が如何に願おうと、最終的にその通りになるように見えますが、実際には依然として業種が主宰し、業種が決定作用を及ぼしているのです。

例えば、植物状態の人が何十年も床に臥せり、身体を動かせない場合、我々の見方では彼の意根はとっくに使用不能な身体を離れる選択をすべきですが、彼にはまだ人としてのわずかな福報が残っており、人間としての福を享け尽くしておらず、人間としての業種が消失していないため、植物状態のまま生き続けます。彼はこのわずかな福を享け尽くそうとし、より長期的な計画を立てて後世のために福報を残し、後世をより快適に生きようとする智慧を持ちません。もし福の業種が尽きれば、意根は直ちに離脱を決断するか、決断しなくても受動的に離脱せざるを得なくなります。なぜなら、生き続ける手段がなくなり、彼を生かし続ける福報と業種がなくなるからです。

さらに例えば、過去に悟りを証した一部の人々は、生きることを望まず、自ら命を絶って人間界を早期に離脱し、後世には天道に生まれて修行を続けることを選択しました。この状況を意根が主宰したと言うことも可能ですが、彼らには我見を断じたことによる相応の善業種子があり、人間界を捨てて天界へ赴き修行することを支え、我見を断じた善報と福徳を早期に享受できるため、意根が自殺を望めば成功するのです。もし我見を断じておらず、業種が変化していなければ、たとえ自殺に成功しても死後は天界に転生せず、無余涅槃に入ることもなく、必然的に元々持っていた悪業や不善業に従って転生し、あるいは三悪道に堕ちて苦しむかもしれません。したがって、一切の法は依然として業種が決定権を持っているのです。

業種子は如来蔵の中に存在し、如来蔵は業種を了別し、業種に基づいて一切の法を造作し、衆生の因縁果報を現出させます。そうであるならば、一切の法は依然として如来蔵が主宰していることになります。意根は表面的には主宰しているように見えますが、必ずしも支配できるわけではありません。なぜなら業種に制限されており、真に主宰することはできないからです。ここから明らかなように、一切の法は因果の中にあり、因果を離れることはなく、因果に背く法は存在しないのです。

——生如法師の開示
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如来蔵は万能法にあらず

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