問:真の大神通は如来蔵を証得する必要があり、自ら如来蔵識の妙用を運用できることが真の大神通であり、これは少なくとも阿羅漢以上の境地です。一般衆生の小神通も理屈の上では如来蔵の妙用ですが、彼らはまだ如来蔵を証得しておらず、如来蔵の妙用を持つべきではないはずです。ではこれらの小神通はどこから来るのでしょうか?如来蔵を宝庫に例えるなら、開発した分だけ運用でき、大神通は如来蔵を100%開発した状態であり、小神通は少しだけ開発した状態と言うべきでしょうか?
答:一切衆生は常に如来蔵を運用しており、使用しない存在はありません。細菌や蟻のような衆生も含まれます。違いは、証得した者は知って用い、未証得の衆生は知らず知らずのうちに用いている点です。実際には全て受動的な使用であり、如来蔵が主動的に援助しています。仏菩薩のような智慧ある者は善用し、心が汚染された者は悪用しますが、善悪いずれの使用も、如来蔵が意根と五蘊に主動的に協調して起こす作用です。意根と五蘊が善なら如来蔵は善法を造り、悪なら縁に随って悪法を造ります。鍵は意根と業種にあります。故に修行とは意根を整え、善種子を蓄えることで、如来蔵が善縁に随って善法を造るのです。我々は修行に専念すれば良く、如来蔵の用法を気にする必要はなく、意根を善用すれば自然に如来蔵も善用されます。
一般に神通とは五神通(天眼通・天耳通・神足通・他心通・宿命通)を指し、全て四禅八定から生じます。憑依現象などは神通に属しません。如来蔵の機能作用を方便的に神通妙用と説きます。衆生の意根の心量と智慧が開け、禅定が現れると、神通や大神通が現れます。これは如来蔵が意根に随って顕現したものです。故に修行は主に意根を修め、まず意識を修めることが重要です。
一般の神通は禅定修行の結果であり、如来蔵の証得有無に関わらず、神通は世俗法であって定学の成就です。世俗法上の事柄に如来蔵を結びつける必要はありません。例えば技術を習得するにはその技術を専研すれば良く、料理を上達させるのに如来蔵を論じても無益です。小乗の空や外道の空を論じる際も、如来蔵に結びつける必要はありません。しかし地上菩薩の大神通は如来蔵の証得と関係があり、それは禅定と大智慧の結合によるもので、いずれかが欠けても大神通は現れません。
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