問:もし私が絶えず観想を続け、あるいは絶えず念仏を唱え経を読むことで、修行が十分に積み重なった時、第七識が薫習されると、自動的に薫修の種子が転じて、外界の環境を変えるのでしょうか? 外界の環境もまた第七識から転じたものだからですよね?
答:種子と境界は、いずれも意根が如来蔵に促されて転化したものであり、意根本身が直接に種子を現行させるわけではありません。修行の過程において、意根の力が十分に強く、得られるエネルギーが充分であれば、如来蔵は意根の心に随順し、全ては問題ありません。境界は意根の心に従って転じ、意根が鍛えられて心力が強大となり、非常に強固に境界を変えようと一途に願うか、あるいは何らかの目標を達成しようとすれば、必ずや願いを満たすことができます。もしまだ願いが成就していないなら、それはまだ力が足りず、引き続き薫修によって力を蓄える必要があるからです。まるで石を指して金となすがごとく、これこそ意根の心力が強大であるが故に、無理やり石を黄金に変えてしまうのです。
仏法をよく学び、心が善くなり、柔軟になれば、そう長くないうちに容貌も変化します。これは全て心が変化した結果であり、この心は主に意根を指し、意識も含みます。いわゆる意根を薫染するとは、自らの心を変えることです。自らの心が変化したかどうか、どのように変化し、どの程度まで至ったかは、自身が仔細に観察すれば分かるはずです。人に対し事に対し、全ての法を修める際、それが真心からか形だけの偽りかは、自ら観察できるでしょう。真実の念仏と偽りの念仏があり、修行が真実のものか、見せかけの修行かは自ら観察できるはずです。何事においても意根が真実に至ることは容易ではなく、戒律・禅定・智慧・福德等の条件が必要です。
全ての心の働きは意識と意根の二層に分かれます。例えば布施が真実の布施か、形式だけの見せかけかは、仔細に観察すれば見分けられます。両親に対するのが真心からの孝養か偽りかは、注意深く観れば判別できます。心を変える修行は、多くが量変から質変へと進み、量の蓄積は意識に、質の変化は意根にあります。故に意識は浅く、意根は深いと言われます。もし意根の善根が深く力強く、特に誠心があれば、直接に質変を起こし、一切を変えることができ、力を蓄える必要はありません。
意根を薫修するには長きにわたる堅持が要り、恒常的に戒律を守り、大菩提心を発し、絶え間なく禅定を修め、物事に専心一意となり、雑念を排し、専ら思惟を深め、福德等の資糧を多く蓄える必要があります。心を降伏させるには、多くの場合意識による法理と世の苦の深い思惟によって意根を薫染し導くことが必要で、時には自ら壁にぶつかることで方向転換を迫られることもあります。故に苦難は成長に不可欠であり、苦難を経験しなければ出離心と勇猛心が生じず、修行は怠惰になりがちです。
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