衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年09月20日    水曜日     第1 回の開示 合計4016回の開示

命終後の往生は善道か三悪道か、何によって決まるのですか

或る者が言う:人が死ぬ時、自然に如来蔵が善処へ導いてくれる。しかしもし如来蔵が自然に善道へ導くのであれば、なぜ全ての衆生は無始劫以来、三悪道にいる時間が三善道にいる時間より遥かに長いのか?如来蔵は何を根拠に衆生の意根を善道へ導くのか?或る者は善法を薫習すれば如来蔵が善処へ導くと説く。しかし善法を薫習する者は非常に多く、仏法を薫習する者も非常に多く、正しい法理を薫習する者も同様に非常に多いが、臨命終時に三悪道に入らず、如来蔵に導かれて三善道に入れる者が果たして何人いるのか?

    如来蔵は何を根拠に意根を善道へ導くのか。それは如来蔵に蓄えられた善業の種子による。しかし如来蔵には無数の悪業の種子も存在する。これらは無始劫以来の悪業造作によって残され、今なお現行していない業種である。如来蔵は結局どの業種を根拠に意根の転生を導くのか。この問題は極めて重要かつ核心的である。仏が経典において衆生に死後三悪道に入らぬことを保証する条件として六つを説かれている:第一に阿含経で説かれる我見を断じ三縛結を断つこと、第二に大乗経典で説かれる明心見性、第三に阿弥陀経で説かれる臨終時に一心不乱の念仏三昧の功夫、第四に観無量寿経で説かれる十六観のうち第三観以上を修め、九品往生に必要な因縁条件を具備すること、第五にその他浄土経典で説かれる往生条件、第六に非仏教徒が死後天界に生まれるために必要な善業種の具備である。

これらの条件が示す通り、単に善法や仏法を薫習すれば三悪道を免れて三善道に生まれるのではなく、この一期の生命において造作した善業の勢力が大きいか、あるいは悪業の勢力が大きいか、さらに無始劫以前の重大な悪業種子が消滅したか、または重大な悪業種子が現行する因縁が具足しているか、臨命終時に善業種子の力と悪業種子の力のどちらが強いかによって、強者が先に牽引し、如来蔵は強業に随って衆生を牽引するのである。死後の趣向は善業力と悪業力の較量によって決定されるか、あるいは願力によって決定され、如来蔵が決定するのではなく、如来蔵はただ業種の力に随順するのみで、衆生の趣向を導く心など本来持たないのである。

無数の人々は正法と善法を縁として薫習しているが、貪瞋痴の煩悩が依然として具足し、少しも断除されず降伏もされていない。これは明らかに煩悩業の勢力が依然強く、臨命終には当然煩悩悪業に牽かれて三悪道へ趣くのであり、事実が示す通り、仏教徒の中でも依然として八割九分以上の者が命終後三悪道に堕ちて悪報を受ける。無数の人々は善法を薫習しているが、その過程で仏法僧三宝を誹謗する悪業を造作しており、この悪業の勢力は極めて大きく、全ての善業の薫習も三宝誹謗の悪業の力に抗し得ない。よって臨命終時、如来蔵は当然誹謗業の種子勢力に随って意根を三悪道へ導く。仮に現世で大きな悪業を造作しなくても、無始劫以前の悪業の縁が熟し、今世の善法薫習の善業力が十分強くなく、縁が熟さず、悪業の縁と勢力を変えるに足りなければ、如来蔵は強大な悪業種子の勢力によって意根を三悪道へ導くのである。

現世における善法薫習の力が未だ強くなく劣弱で、ただ意識が善法を理解しただけで、意根まで薫習が至らず、意根が善法を証得していない場合、このような善法の薫習は強力な種子として如来蔵に蓄積されず、強大な勢力を具えず、大した作用を起こせず、煩悩業の勢力に対抗できず、後世の三悪道堕ちの運命を変えるに足りない。五陰身の一切の身口意行は全て種子として如来蔵に蓄積される。無数の人々は善法を薫習していても、身口意行が変わらず、依然として貪瞋痴の煩悩悪業を造作するならば、如来蔵に蓄積されるのは貪瞋痴の煩悩業種であり、臨命終時には煩悩業の力が非常に強く、意根を三悪道へ牽引し、三善道に生まれることはできない。

五陰身の身口意行は誰が主導して造作するのか。もちろん意根が主導して造作するのである。もし衆生が現世で薫習した善法が意根に落ちず、意根が仏法を実証して無明と煩悩を破ることがなければ、意根は不善であり、善業を主導して造作せず、善業種子は如来蔵心体の中に蓄積されない。そうなれば如来蔵はどうして意根を善道へ転生させることができようか。要するに、いかなる者が善法を薫習しても、もし意根を薫染して成就させず、意根の煩悩染汚性を改めず、意根の心行を変えなければ、意根は依然として染汚業を主導して造作し、染汚業種は如来蔵心体に蓄積され、如来蔵に後世の悪業果報を生じさせ、この者は命終して善道で善報を受けることができないのである。


——生如法師の開示
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