衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年09月21日    木曜日     第1開示 合計4017開示

いかにして意根が一切法を変えるのでしょうか

問:もし私が絶えず観想を続けたり、ひたすら念仏や読経を唱え続けたりして、修行の功徳が十分に積み重なったとき、第七識が染め上げられると、自動的に染修の種子が転じられて、外界の環境を変えることができますか?なぜなら外界の環境も第七識から転じられたものだからですよね?

答:種子も境界も、すべて意根が如来蔵に促されて転化したものであり、意根自体が種子を現行させることはありません。修行の過程において、意根の力が十分に強く、得られるエネルギーが十分に大きければ、如来蔵は意根の心に随順します。すべては問題ではありません。境界は意根の心に従って転じ、意根が訓練されて心力が非常に強くなり、非常に固く境界を変えようと一途に願うか、あるいは何らかの目標を達成しようとすれば、必ず願いは満たされます。もしまだ願いが叶っていないならば、それはまだ力が足りず、染修によって力を集積する必要があるからです。まるで石を指して金となすがごとく、それは意根の心力が強大であるがゆえに、無理やり石を黄金に変えてしまうのです。  

仏法を学び極め、心が善くなり、心が柔らかくなれば、長くはかからずに容貌も変わります。これらはすべて心が変わった結果であり、この心は主に意根を指し、意識も含みます。いわゆる意根を染めるとは、自らの心を変えることです。自らの心が変わったかどうか、どのように変わったか、どの程度まで変わったかは、自分でよく観察すれば分かるはずです。人に対しても事に対しても、すべての法を修めるにあたり、真心からなのか、応じて見せかけているのかは、自分で観察できるはずです。真心を込めたものはすべて意根が関わっています。念仏には真の念仏と偽りの念仏があり、修行する際に真の修行なのか、それとも修行のふりをして見せかけているのかは、自分で観察できるはずです。何事においても意根が真に至る程度に達するのは容易ではなく、戒律、禅定、智慧、福德などの条件が必要です。

すべての心の行いは意識と意根の二つのレベルに分かれます。例えば布施が真の布施なのか、形式を踏んで目立ちたいだけなのかは、よく観察すれば見分けられます。両親に対するのが真心からの孝養なのか、偽りの心なのかは、注意深く味わえば見分けられます。心を変える修行は、ほとんどの場合量変から質変へと進み、量の蓄積は意識にあり、質の変化は意根にあります。だからこそ意識は浅く、意根は深いと言われるのです。もし意根の善根が深く、力が強く、特に誠心誠意であれば、直接質変を起こし、すべてを変えることができ、力を蓄積する必要はありません。

意根を染修するには長い間の持続が必要であり、弛まずに戒律を守り、大菩提心(ぼだいしん)を発し、絶えず禅定を修め、物事に専心一意に取り組み、雑念や妄想を排し、専ら思惟に心を集中し、福德などの資糧を多く集積しなければなりません。心を降伏させようとするならば、ほとんどの場合、意識が法理や世の苦しみを深く思惟し、それによって意根を染め導く必要があります。時には「南壁」(行き詰まりの壁)にぶつかって、強制的に自らを方向転換させる必要があるため、苦難は成長に不可欠です。もし苦難を経験しなければ、出離心や勇猛心は生まれず、修行は怠惰になりがちです。

——生如法師の開示
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