衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2023年09月18日    月曜日     第1開示 合計4015開示

菩薩のどのような行為が犯罪に当たるのか

『菩薩優婆塞五戒威儀経』原文:菩薩かくの如く見、かくの如く語る。菩薩は涅槃を楽しむべからず。涅槃に背くべし。煩悩を畏るべからず。煩悩を滅すべからず。何となれば。菩薩は三阿僧祇劫に生死に往来するが故なり。かくの如く語る者は、重垢罪を犯す。

釈:菩薩もしこのような知見を持ち、このような言葉を発するならば、重垢罪を犯すことになる:菩薩は涅槃に執着して楽しむべきではなく、涅槃に背くべきである。菩薩は煩悩を恐れるべきではなく、また煩悩を滅除すべきでもない。なぜこのように言うのか?菩薩は三大阿僧祇劫にわたり生死を往来するためである。このように言う者は、重垢罪を犯す。

菩薩は涅槃を楽しみながらも涅槃に入らず、清浄な心をもって衆生を導き修行させ、衆生を解脱へと導くのである。菩薩は涅槃に背いて煩悩に染まった心を持つべきではない。染まった心は衆生の身心を害し、衆生を救うことができず、衆生に対して正しい影響を与えることができない。もし菩薩が涅槃に背けば、生死に溺れ、自らも救うことができず、ましてや衆生を救うことはできない。自らすら解脱していないのに、どうして衆生を解脱させることができようか?

菩薩の煩悩に対する態度は次のようであるべきである。菩薩は煩悩を恐れるべきであり、煩悩を滅除すべきである。しかし、煩悩を滅除すべきであると同時に、煩悩を完全に滅尽してはならない。もし煩悩を滅尽すれば、第四果の阿羅漢を証得し、命終すれば必ず無余涅槃に入り、衆生と仏道を捨ててしまう。菩薩が煩悩を断たなければ、自らを救うことができず、どうして衆生を救うことができようか? したがって菩薩もまた煩悩を断じ、初果・二果・三果を証得し、煩悩を三果の程度まで断ずべきであり、煩悩を完全に断じて四果を証得すべきではない。

菩薩は小乗において三果まで修めれば十分であり、それによって大乗の修行において初地から七地の菩薩の位に達するのに十分である。これは菩薩道の修行に支障なく、かえって衆生を救うのに都合がよい。七地菩薩まで修めたならば、仏力の加護のもとで煩悩を完全に断尽し、八地菩薩を証得して無余涅槃に入らないのである。菩薩は三大阿僧祇劫にわたり修行し衆生を救うが、煩悩の身をもって三界を遊行することはできない。そうでなければ、人間身や天人身を保証できず、自らを救うこともできず、ましてや衆生を救うことはできない。

原文:何となれば。菩薩の涅槃を楽しむこと、煩悩を畏るることは、声聞に比するに、千万倍もって譬えるべからず。何となれば。声聞の人は自に順じて己が為にす。菩薩は常に一切の衆生が為の故なり。菩薩は有漏に処するといえども、煩悩を滅することに於いて自在を得。羅漢の無漏に処する者の上に過ぐ。

釈:なぜこのように言うのか? 菩薩が涅槃に執着し、煩悩を恐れるとしても、その心の働きは声聞人よりも千万倍優れているからである。なぜか? 声聞人は結局、自己中心的な性質に従って自らのことだけを考え、衆生の生死を顧みないが、菩薩は常に一切の衆生のために考えているからである。菩薩は有漏の煩悩の中にいるが、煩悩を滅除することについては非常に自在であり、煩悩は滅尽しようとすれば滅尽できる。なぜなら最後の一線の煩悩は意図的に保持されているからである。したがって菩薩は無漏の位にある阿羅漢を超え勝っているのである。

原文:もし菩薩身口の業を起こすならば、自ら防護すべし。他人に慢惰の罪を生ぜしむること莫(な)かれ。もし故(わざ)と自ら護らずして、他をして惰罪をなさしむる者は、重垢罪を犯す。もし作意して自ら護らず、放散して所作し、他に罪を生ぜしむる者は、軽垢罪を犯す。犯さざる者とは、もし外道なり、もし出家に随って如法の所作をなすなり、もし多く瞋恚(しんに)なる悪人に値(あ)うなり、是を犯さずと名づく。

釈:もし菩薩が身口の業(行為)を起こそうとする時は、自らよく防護し、悪行を生じさせてはならない。そうすることで衆生の誹謗や軽蔑を招き、衆生に慢心を生じさせ、不恭敬のゆえに罪を得させることになる。もし菩薩が故意に自身の身口の防護をせず、衆生に不恭敬の罪業を造作させたならば、菩薩は重垢罪を犯す。菩薩が特に意を用いて自らの身口業を防護せず、散漫放逸に身口を放任し、意のままに振る舞い、他人に罪悪を生じさせた者は、軽垢罪を犯す。

罪を犯さない場合とは、外道に出会い、彼らの外道行や邪法を斥責する必要がある時、身口に衝突する行為があっても、これは罪に属さない。あるいは菩薩が因縁に随って出家し、身口の行いが道理と法に適い、罪を犯さない場合。あるいは多くの瞋恚(怒り)に満ちた悪人に出会い、これらの悪人を懲らしめるために身口の行いを拘束せず、言動に衝突があっても、罪に属さない。

このように言うならば、もしある人が身口意の行いを常に慎まず、非常に顕著な貪瞋痴の三毒煩悩を示し、常に衆生に自分を誹謗軽蔑させ、続いて三宝(仏・法・僧)や仏経、法義、他の菩薩を誹謗させるようならば、そのような人は合格した菩薩と言えるのか? 罪を犯しているのか? そのような人は合格した菩薩ではなく、重垢罪を犯している。ある人が自ら清浄でない身口意の行いによって、多くの衆生に誹謗を生じさせ、さらには法を誹謗させるならば、その罪は大きくないか? 非常に大きい。もしある人が故意に極めて大きな貪瞋痴の煩悩をもって、多くの衆生に法を誹謗させ、法を信じさせないようにするならば、それは魔党(仏道を妨げる者)ではないか? 魔党である。魔党が貪瞋痴を持ち、衆生に危害を加えることを知りながら、なおも擁護する者は、共犯者であり、同様に罪がある。

したがって、ある人が真の菩薩であるか、善知識であるかを判断するには、全体的に考慮すべきであり、一つの点だけを見て他の点を顧みてはならない。その中でも身口意の行いは最も重要な判断基準であり、人の本質を最も露呈し、問題を最もよく説明し、影響も最も大きく、仏教の信用と威信、そして仏教の興衰に関わる。したがって、仏を学ぶ者は皆、自らの身口意の行いを清浄にすることを重んじ、決して貪瞋痴の煩悩悪業を造作してはならない。

——生如法師の開示
前へ前へ

熏習を受け種子を保持する真義

次へ 次へ

命終後の往生は善道か三悪道か、何によって決まるのですか

ページトップへ戻る