『菩薩優婆塞五戒威儀経』原文:菩薩かくの如く見、かくの如く語る。菩薩は涅槃を楽しむべからず。涅槃に背くべし。煩悩を畏るべからず。煩悩を滅すべからず。何となれば、菩薩は三阿僧祇劫に生死を往来するが故なり。かくの如く語る者は、重垢罪を犯す。
釈:菩薩もしこのような知見を持ち、このような言語を用いるならば、重垢罪を犯す。菩薩は涅槃に執着すべきでなく、涅槃に背くべきである。菩薩は煩悩を恐れるべきでなく、また煩悩を滅すべきでもない。なぜかと言えば、菩薩は三大阿僧祇劫の間生死を往来する必要があるからである。このように語る者は、重垢罪を犯す。
菩薩は涅槃を楽しみながらも涅槃に入らず、清浄心をもって衆生を導き解脱を得させる。菩薩は煩悩に染まった心で涅槃に背くべきではなく、染心は衆生の身心を害し、救済の妨げとなり正しい影響を与えられない。もし菩薩が涅槃に背けば、生死に沈溺し自らも救われず、ましてや衆生を救うことはできない。
菩薩の煩悩に対する態度は、煩悩を畏れつつも完全に滅尽せず、三果阿那含の段階で留まるべきである。煩悩を完全に滅すれば四果阿羅漢となり無余涅槃に入り衆生を見捨てる。かといって煩悩を断たねば自らも救われず、どうして衆生を救えようか。故に菩薩は初果から三果までを修め、七地菩薩に至って仏力加持の下で煩悩を断尽し、八地菩薩となって無余涅槃に入らないのである。
原文:何となれば、菩薩の涅槃を楽しむこと、煩悩を畏るることは、声聞に比べ千万倍も譬えるべからざるが故なり。何となれば、声聞の者は自利のために順じ、菩薩は常に一切の衆生の為にするが故なり。菩薩は有漏に在りながらも煩悩を滅することに自在を得、無漏に在る羅漢を超える。
釈:菩薩が涅槃を楽しみ煩悩を畏れる心行は、声聞人の千万倍に勝る。声聞は自己保身に過ぎぬが、菩薩は衆生救済を本願とする。菩薩は煩悩を残しつつ自在にこれを制御し、最後の一線を意図的に保持する故に、無漏の阿羅漢を超えるのである。
原文:もし菩薩が身口の業を起こす時は、自ら防護し、他者に慢惰の罪を生ぜしめぬべし。もし故意に自護せず他を罪に堕すならば、重垢罪を犯す。もし注意して自護せず放逸に任せ他者に罪を生ぜしめれば、軽垢罪を犯す。不犯とする者は、外道に対し、或いは出家の如法所作に随い、或いは多嗔の悪人に遇う時なり。
釈:菩薩は身口業を厳しく律し、衆生の誹謗を招かぬよう注意すべきである。故意にこれを怠れば重罪、不注意による場合は軽罪となる。ただし外道を諫めたり、出家の本分を全うする場合、あるいは悪人を調伏する際は罪に当たらない。
身口意の行いが不浄で衆生に誹謗を生じさせ三宝を謗らせる者は真の菩薩ではなく重罪を犯す。故意に煩悩を顕現させ衆生を法謗に導く者は魔党と見做され、これを擁護する者も同罪である。真の善知識か否かは身口意の清浄さに現れる。仏教の興隆は修行者の行持にかかっており、一切の衆生は貪瞋痴の悪業を慎むべきである。
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