衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年09月17日    日曜日     第1 回の開示 合計4014回の開示

熏習を受け種子を保持する真義

ある人が第六識は第七識を染めることができず、如来蔵のみを染めると言いました。この言葉は正しいのでしょうか。鍵となるのは第六識、第七識、如来蔵の三者関係、第六識が染める目的、そして如来蔵が染められ得るかどうかにあります。例えば第六識が仏法に触れ、仏法の素晴らしさを感じ、無明を断ち解脱を得られると悟り、解脱を求めて懸命に修行します。この修行過程において、染められるのは如来蔵か第七識か。もちろん第七識が染められ、第七識が変化するのであり、如来蔵は染められず変化もしません。しかし第七識が染められた後、業種は如来蔵に保存され、如来蔵内に仏道修行の善業種子が蓄積されます。これを便宜的に「如来蔵が染められる」と表現しますが、実質は如来蔵が染められるのではありません。なぜなら如来蔵は一切の法に対し如如不動で、善悪を超えているからです。

第六識が仏道修行しても如来蔵を染めることはできず、如来蔵は永遠に仏道修行しません。第六識に無明がある者が無明を断とうとしても、如来蔵を染めて無明を断つことはできません。なぜなら如来蔵には無明が存在せず、無明がない以上断つ必要がないからです。第六識は第七識のみを染めるのです。如来蔵は手ぶらで耳も口も目もなく、仏道修行できず、煩悩を断つことも善に転じることもできません。そもそも如来蔵には断つべき煩悩も除くべき無明も存在しません。

第六識が成仏や解脱や涅槃を望んでも、如来蔵にはそのような心の動きや考えが一切ありません。もしあれば世俗の心行に堕してしまいます。故に第六識は第七識を染めてこれらの願いと行いを生じさせるのです。如来蔵自体が如来であり、解脱自在で、不生不滅・不動不静・不来不去の涅槃境地にあり如如不動です。如来蔵に三十七道品を修めさせようとしても、第一に理解できず、第二に必要ありません。戒定慧を修めさせても、元々戒定慧を具えており教えを必要としません。煩悩を断たせようとしても、何ら煩悩を持ち合わせていません。如来蔵を染めようとする者は、そもそも如来蔵の本質、染めることの意味と結果を理解していません。ただ妄執と妄想を重ね、頭に頭を乗せ蛇足を描き、数十年を無駄にしても依然として仏道修行の真意を知らないのです。

意根は無始劫以来ずっと無明と共にあり、無明に縛られてきました。六識が生じた後、意根は無明を六識に伝達し第六識を染めてきました。仏道に入り第六識が覚ると、意根を引き連れて共に覚り、意根を染めて少しずつ無明を除き明らかになります。この過程で意根が染められると種子が生じ、如来蔵に保存され来世のために蓄えられます。

来世でどのように使われるのでしょうか。種子の縁が熟す時、再び第六識を染めます。第六識が覚った後、仏道修行して意根を染め、新たな種子を形成し如来蔵に保存します。こうして雪だるま式に意根に染められた種子は増大し、無明は次第に薄れ、最終的に一切の無明を断尽し衆生は成仏します。如来蔵はこの中で絶えず種子を収蔵し出力し、その功績は計り知れません。もし如来蔵が種子を保存出力しなければ、修行は単なる遊戯に等しく、修行しても無駄になり、何も残らず来世に功徳を用いることができません。如来蔵が種子を保存する過程を受熏持種と呼びます。

古文は誰もが解釈し深く理解できるものではありません。深遠な仏法も、誰もが脳裏で推測し得るものではなく、自らを過信すべきではありません。如何なる境地に至るのも容易ではなく、多大な善根・福德・智慧を必要とします。また「如来蔵なしで修行成仏できる」と言う者もいますが、いったい何を使って成仏するのでしょうか。自らの主人であり無量劫の恩人を認めないこの頭脳は、確かに啓発される必要があります。

——生如法師の開示
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