第六識は第七識を熏習できず、如来蔵のみを熏習できるという説があります。この説は正しいのでしょうか。要は第六識、第七識、如来蔵の三者の関係性、第六識が熏習する目的、如来蔵が熏習を受けられるかどうかにかかっています。例えば第六識が仏法に触れ「仏法は素晴らしく、無明を断じ解脱を得られる」と感じ、懸命に修行して解脱を求める場合、この修行過程で熏習を受けるのは如来蔵か第七識か。当然第七識が熏習を受け、第七識が変化するのであり、如来蔵は熏習も受けず変化もしません。ただし第七識が熏習を受けた後、業種は如来蔵に保存され、これにより如来蔵には仏道修行の善業種子が宿ります。これを方便的に「如来蔵が熏習を受ける」と表現しますが、実質は如来蔵が熏習を受けないのです。なぜなら如来蔵は一切の法に対し如如不動で、善悪を超えているからです。
第六識が仏道修行しても如来蔵を熏習できず、如来蔵は永遠に仏道修行しません。第六識に無明があって無明を断じようとする時、如来蔵を熏習して無明を断じられるでしょうか。明らかに不可能です。如来蔵には無明がなく、無明が無ければ断ずる必要もないからです。第六識は第七識のみを熏習できます。如来蔵は無防備で聾唖盲の如く、仏道修行も煩悩断除も善悪の選択もできず、そもそも断ずべき煩悩も無明も持ち合わせていません。
第六識が成仏・解脱・涅槃を求め如何に熏習しようと、如来蔵にはこれらの心行や想念がありません。もしあれば世俗の心行に堕するため、第六識は第七識を熏習してこれらの発心と行いを生じさせるのです。如来蔵自体が如来であり解脱自在で、不生不滅・不動不静・不来不去の涅槃境界に安住し如如不動です。三十七道品を修めよと言っても、第一に理解できず、第二に必要ありません。戒定慧を修めよと言っても本来具足しており、煩悩を断じよと言っても何も持っていません。如来蔵を熏習しようとする者は、そもそも如来蔵の本質と熏習の意義・結果を理解していないのです。様々な妄想を重ね、蛇足を加え、数十年徒労しても依然として仏道修行の真意を知りません。
意根は無始劫来ずっと無明と共にあり、六識が生じると無明を六識に伝達して第六識を熏習します。仏道に入り第六識が覚醒すると、意根を導いて共に覚醒させ、意根を少しずつ熏習して無明を除去していきます。この過程で意根が熏習を受けると、種子が形成され如来蔵に保存され、来世の因となります。
来世ではこの種子が縁熟すると再び第六識を熏習し、第六識が覚醒して仏道修行し意根を熏習、新たな種子を形成して如来蔵に保存します。こうして雪だるま式に意根の熏習種子が増大し、無明が次第に薄れ、最終的に一切の無明を断尽すれば衆生は成仏します。如来蔵は絶えず種子を収蔵・出力する重要な役割を担っています。如来蔵が種子を保持しなければ、修行は単なる遊戯に等しく、来世に功徳を残せません。この過程を「受熏持種」と呼びます。
古文は誰もが解釈できるものではなく、深甚な仏法は推測で理解できるものではありません。自らの見解に固執すべきではなく、成仏の道は並大抵ではなく、膨大な善根・福德・智慧を要します。なお「如来蔵なしで成仏できる」と主張する者がいますが、その根拠は不明です。無量劫の恩人である自らの主人を認めぬ者は、早急に悟りを開くべきでしょう。
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