衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年09月14日    木曜日     第1 回の開示 合計4011回の開示

仏教の聖者は必ずしも儒教の君子ではない

儒教文化は仏教の基盤であり、人としての道を説き、君子の行いを教え、身心を律し、身口意を清浄に保ち、貪瞋痴を調伏することを説きます。まさにこの儒教文化の素地があったからこそ、仏法は西インドから中国に伝わり、この地に根を下ろし、中華民族に福祉をもたらすことができました。仏教の修行は儒教を基盤とし、思想・品格・道徳的修養においてはさらに儒教を超え、儒教よりも清浄で高潔でなければならず、泥中の蓮のように染まらぬ境地を目指すべきです。

儒教が提唱する君子の道は、言行一致を旨とし、表裏なく光明磊落たる大丈夫の気概を重んじます。君子が儒教の掲げる規範であるならば、仏教の規範は聖賢たるべきで、君子を超越するものでなければなりません。ゆえに君子たる者が必ずしも仏教の聖賢とは限りませんが、仏教の聖賢は必ず儒教の君子であります。君子ならざる者は聖賢でも善知識でもありません。もし自らを聖賢や善知識と称する者がいれば、その身口意の行いを君子の徳行と照らし合わせるべきです。その品行が君子に及ばず、君子との隔たりがあれば、染汚され同化されないよう警戒し、心の鏡を曇らせぬよう注意しなければなりません。人が悟りを証し、自性を見たかどうかを検証するには、まずその品格と徳行の修養を点検すべきです。心性の要件を満たさぬ者は、他の理論は全て口先だけのもので実証を伴いません。真に悟りを証した者は必ず心性が転換するもので、万法唯心造と説かれる如く、明らかに染汚された心から聖賢は生まれないのです。

仏道を学ぶ修行者もまた、君子の行いを多く学び、儒教や道教の伝統的な学問を修め、人格の操守を次第に円満にすべきです。人としての品性修養を備え、心性が成熟完成してこそ、仏法の修学において努力がそのまま功を奏します。理論的修練(技術)と心性の向上が同期し、完璧に融合して初めて脱胎換骨が可能となり、鯉が龍門を登るように真の聖賢者となり、衆生の模範となって初めて、衆生を解脱の道へ導く資格を得るのです。

長年仏教を学びながら修行が進まぬ人々の原因はどこにあるのでしょうか。修行が単なる技術的な努力や道の実践だけでなく、より重要なのは心性の鍛錬と陶冶、人格の完成にあるからです。人としての資質を満たさぬ者がいかに努力しても、自らの心の牢獄を突破して聖賢となることはできません。多くの仏教修行者の徳行は世俗の一般人にも劣り、学べば学ぶほど煩悩が増し、貪瞋痴を抱えたまま、世俗的な欲求に囚われ名声利養に苦心する者たちが、安易に悟りを得たと宣言します。一方、徳行の優れた人々は慎重に自己を点検し、軽々しくそのような称号を冠そうとはしないものです。

——生如法師の開示
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