業行の種子は生住異滅のものであり、互いに変換することはできません。善悪は互いに消長するとは言え、善悪業の種子も互いに変換することはできません。染汚の種子とは、染汚の心で造作された染汚の業行によって残された業種子であり、この種子が成熟して果実を結ぶと、衆生は悪報を受けることになります。報いが尽きると種子は滅除されます。もし染汚業を懺悔し、心が清浄に転じた後は、染汚の種子も消除され、未来世では悪報を受けないか、少なくとも悪報を少なく受けるようになります。したがって、染汚の種子は滅除されるものであり、変換されるものではありません。もし無明が次第に滅除されると、心はますます清浄に転じ、明が次第に増加し、染汚の種子が消除されることもますます多くなり、完全に滅尽するまで続きます。心が究竟清浄無余になると、成仏します。無明がますます薄れ、明がますます多くなるにつれて、心が染汚される現象もますます少なくなり、清浄の善業はますます多くなり、最後には清浄の業と清浄の種子のみが残り、染汚の業と染汚の種子はなくなります。
ある人は、如来蔵には染と浄があると言い、それゆえに転識成智の説があるとします。しかし、実際には如来蔵の本体は清浄識であり、ただ七識が造作した染汚業種を蔵しているために、如来蔵は不垢不浄となるのです。もし如来蔵が七識の染汚業種を蔵さなければ、如来蔵は清浄の無垢識となります。如来蔵に染があるなら、煩悩染汚業があるはずですが、如来蔵は善業や悪業、および不善不悪業を造作することはありません。七識に煩悩と染汚があり、善悪業を造作することができるのです。したがって、七識が煩悩の時に造作した悪業は染汚業となります。如来蔵は七識が造作した善悪業を蔵した後、染汚の業種を含蔵することになります。
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