認知症や記憶障害を患う人は、業障が比較的重いと言えます。主に脳に障害が生じているためで、これは意識の機能を阻害しています。しかし、普段から念仏を唱えて意根を染め、業障の大部分を消除し、念仏三昧の境地に至ることができ、常に阿弥陀仏を思い起こせるのであれば、どうして認知症になることがありましょうか。どうして記憶を失うことがありましょうか。福徳に恵まれ業障の軽い人が、どうして認知症になったり記憶を失ったりすることがありましょうか。
認知症や記憶障害の状態で、最も身近な息子さえも分からなくなり、自分の名字さえ忘れてしまった場合、ましてや仏を思い出すことなどできず、念仏など唱えられるでしょうか。仏と実の息子とでは、どちらがより身近でしょうか。もちろん息子の方が身近です。最も身近な息子さえ思い出せないのに、どうして仏を思い出せましょうか。認知症や記憶障害を患うということは、すなわちその人の心に阿弥陀仏が存在せず、念仏によって業障を少しも消除できておらず、念仏が意根に染み込んでいない証拠です。もし念仏が意根に染み込んでいれば、心が阿弥陀仏で満たされ、どうして認知症になることがありましょうか。記憶を失うこともありえません。心が仏で満たされ、業障の大部分が消除され、仏力の加護を受けているなら、どうして記憶を失うことがありましょうか。仏すら思い出せないのに、どうして往生できましょうか。たとえ正常な人でも、禅定を得た人でも、往生できるとは限りません。往生は非常に困難であり、悟りを開くことや証果を得ることよりも簡単ではないのです。
自らが実際に経験し、その後で語る教えこそが信頼に値します。経験もなく、経典の解釈に頼ったり、自分で想像を巡らせたり、実際に実践もしていないのに、どうして保証などできましょうか。それは信頼できません。もし私が浄土や往生について語るなら、仏典に基づいて語らなければなりません。仏典を離れては語れません。なぜなら私は往生したことがなく、具体的にどのような状況で往生できるかを知らないからです。それゆえ仏典にのみ頼って語るほかありません。ただし、私が念仏を唱え続け、仏から保証を受けた場合は別です。つまり、「臨終の際、いかなる状況であれ、必ず正念を保ち、確実に往生できる」という保証を受けた場合のみ、それは信頼できます。それ以外はすべて信頼できません。
さて、浄土宗が教えを説き、人々を往生に導くために、最も適格でふさわしい人物は浄土宗の初祖・慧遠大師ただお一人です。大師が人々を導いて浄土を修めれば、その教えの一つ一つが人々の信頼と受け入れを得、一つ一つが信頼に値します。大師が「このように行じれば必ず往生できる」「あのように念仏すれば必ず往生できる」と説かれる言葉は、すべて信頼できます。それ以外の人の説く教えは、すべて信頼できません。なぜ浄土初祖・慧遠大師の言葉が信頼できるのでしょうか。なぜなら大師は自ら浄土行門を実践し、しかも成功されたからです。大師が浄土を修められた時、常に身心は三昧の境地にあり、阿弥陀仏が大師の三昧の中に幾度もご出現になり、極楽浄土の境界も大師の三昧の中に幾度も現れました。大師は常に三昧の境界にあって定から出ることなく、必ず往生することは疑いありませんでした。
では、大師の禅定と智慧の修持経験をもってすれば、大師が「どのようにすれば往生できるか」と説かれる言葉こそが確かで信頼できるのです。なぜなら大師はその境地に至っておられ、経験を持っておられるからです。経験のない人の言葉は信頼できません。同様に、ある人々が明心開悟について説いても、真の開悟を経験していないため、その説く明心開悟も信頼できません。彼らの説く明心開悟の理論は正しいかもしれませんし、間違っているかもしれません。しかしたとえ理論が正しくとも、実際には真の開悟には至りません。結局のところ、自ら経験しておらず、行持が正しくなければ、説くことも信頼できないのです。誰であれ教えを弘めるには、必ず自ら修行を経て、その道を歩んでこそ、説くことが信頼に値します。それ以外はすべて信頼できません。浄土を弘める人々で、念仏往生について少しの経験も持たない者たちが説く、「このように念仏すれば必ず往生できる」といった類いの言葉は、すべて信頼できません。信頼できるのは仏典のみです。浄土経典を離れて往生を説くことは、すべて憶測と幻想に過ぎません。
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