衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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仏道無上誓願成

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日常法話

2023年09月08日    金曜日     第1開示 合計4007開示

六祖の頓悟と神秀の漸修の関係

唐代の南宗は六祖を首領とし頓悟を主張した。六祖の有名な偈「菩提本無樹、明鏡亦非台、本来無一物、何処惹塵埃」がある。一方、北宗は神秀を首領とし漸修を主張し、神秀の偈は「身是菩提樹、心如明鏡台、時時勤払拭、勿使惹塵埃」である。六祖の偈は彼がまだ小乗の空の境地に留まっており、大乗の悟りには至っていないことを示し、神秀の偈は彼がまだ身心を修める段階にあることを示している。当時の人々も後世の人々も六祖を称賛し神秀を貶めるが、それぞれに道理があり、素質が異なり、因縁が異なれば、修める法も同じであるべきではないことを理解していない。両者は頓悟と漸修の関係にあり、無理に一致させることはできない。

漸修と頓悟の関係について、私はかつて例を挙げたことがある。大木を鋸で切るように、大木が倒れる時を頓悟に喩え、大木が倒れる前の作業を漸修に喩える。漸修の後に初めて頓悟があり、頓悟の後もなお漸修が必要である。前の修めと後の修めでは修める法が異なり、悟り後の修めと悟り前の修めは確かに同じではない。神秀の言う漸修は頓悟以前の漸修であり、基礎を固める段階にある。このような漸修がなければ後の頓悟はありえない。一方、六祖の「本来無一物」はまだ大乗の頓悟ではないが、彼の前世における修行の功績が既に完了しており(何世も何劫もかけて完成したかも知れない)、今世では内心がすでに空(くう)であり、身心を修め「時時勤払拭」する必要がないのである。

六祖の立場に立てば、六祖の根性は完全に直接に空(くう)に向かうことができ、大乗の空には達していなくても、禅宗の頓悟に属さなくても、六祖には空(くう)の能力があり、この境地は確かに神秀よりはるかに高く、すでに漸修の段階を過ぎており、因縁が到来すればいつでも頓悟の境地に至ることができる。一方、神秀は頓悟からまだ遠く、彼は漸修をしなければならず、常に努めて心の汚れを払拭しなければ頓悟できず、小乗の空さえも不可能である。

どの段階にいるかによって相応の法を修めるべきであり、各人が置かれた境地が異なれば、修める法も同じであるはずがない。小学生には小学生の修める法があり、大学生には大学生の修める法がある。すべての人に大学の課程を学べと要求することはできず、ほとんどの人は前段階の小学や中学を経なければならない。道は一歩一歩進むものであり、中間の過程を飛び越えることはできない。時間の長短は人によって異なるが、この過程は必ず必要であり、たとえ一瞬の過程であっても存在しなければならない。これらのすべての過程を経て、初めて最後の頓悟の境地に至ることができる。これが六祖と神秀の頓悟と漸修の弁証法的関係である。

——生如法師の開示
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