唐代の南宗は六祖を首とする頓悟を主張し、六祖の有名な偈「菩提本無樹、明鏡亦非台、本来無一物、何処惹塵埃」がある。一方、北宗は神秀を首とする漸修を主張し、神秀の偈「身是菩提樹、心如明鏡台、時時勤拂拭、勿使惹塵埃」がある。六祖の偈は小乗の空の境地に留まり大乗の悟りに至っていないことを示し、神秀の偈は身心を修める段階にあることを示している。当時の人々や後世は六祖を称賛し神秀を貶めるが、各々に道理があり根機も因縁も異なるため修める法が同じであるべきではなく、両者は頓悟と漸修の関係にあり一概に求めるべきではない。
漸修と頓悟の関係について、かつて大木を切る例えを挙げたことがある。大木が倒れる瞬間を頓悟に喩え、倒れる前の作業を漸修に喩える。漸修を経て初めて頓悟があり、頓悟後も再び漸修が必要となる。悟前の修と悟後の修では修める法が異なり、神秀の説く漸修は頓悟前の基礎段階であり、この漸修なくして後の頓悟はあり得ない。六祖の「本来無一物」は大乗の頓悟に未だ至らないが、前世ですでに修行を完成させており、今世では身心を修める必要がなくなっている。
六祖の立場から見れば、その根性は直接空に至る能力を備えていた。大乗の空には達していず禅宗の頓悟にも属さないが、漸修の段階を超越した境地にあり、因縁が熟せばいつでも頓悟の境地に至り得る。一方、神秀は頓悟から程遠く、漸修を続け心の汚れを絶えず払拭しなければならず、そうでなければ小乗の空さえ達成できない。
その時々の段階に応じて相応しい法を修めるべきである。各人の境地が異なるため修める法も同じではあり得ない。小学生には小学生の法があり、大学生には大学生の法がある。全ての人に大学の課程を求めることはできず、ほとんどの者は小中学校の段階を経なければならない。道は一歩ずつ進むべきで、中間過程を飛び越えることはできず、時間の長短は人によって異なるがこの過程は必ず必要である。全ての過程を経て初めて最終的な頓悟の境地に至る。これが六祖と神秀の頓悟と漸修の弁証法的関係である。
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