衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年09月05日    火曜日     第1開示 合計4005開示

戒律の宗旨と大綱

凡夫の衆生はすべて悪多く善少なく、常に悪業を作り、悪業に従って三悪道の常連となる。衆生に六道の生死輪廋の苦を断じさせんがため、仏陀は次第に多くの戒律を制定された。仏陀が成道したばかりで戒律制定の因縁がまだ現れていなかった時、弟子たちの身口意の行いを律し、修行の正道に導くために、仏陀は弟子たちに告げられた:「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」と。この言葉は修行を指導する総則であり、戒律の宗旨と総綱でもある。この総綱から具体的な枝分かれや細目を拡張し、衆生が次第に深く種々の戒律を受持し、戒定慧の三無漏学を円満して、漸く仏に成ることを指導できる。この総綱の意味は:一切の悪行を行わず、一切の善法を実践し、自ら己が心意を清浄にすること、これが十方諸仏の教える律行である。

一切の悪を断じ一切の善を修め、悪行を断じ尽くし善行を円満すれば仏道を成じる。この過程には定学と慧学が含まれている。なぜなら禅定がなければ悪を断じられず善を修められず、智慧がなければ悪を断じられず善を修められないからである。智慧があれば善悪とその果報を充分に認識・識別でき、はじめて悪を断じ善を修めることができる。禅定が深く微細であればあるほど、断じる悪はより深く微細になり、修める善法もより深く微細になる。智慧が深く微細であればあるほど、断じる悪もより多く微細になり、修める善もより多く微細になる。故に戒定慧の三無漏学は一体不可分であり、分離すれば仏道を成就できない。智慧だけを求め戒定を求めない思想は極めて偏頗で智慧がない。では修行とは結局何を修めるのか、我々の心には明らかであるべきだ。

悪を断じ善を修めることは総綱である。この総綱の下、多くの粗から細へ、浅から深への枝分かれがある。枝分かれが深く微細になればなるほど、智慧がますます深まり、無明の煩悩が次第に軽くなり、ついには無に至ることを示す。これらの枝分かれに対応するのは大小乗の各種律法であり、最も粗浅で基本的なのは小乗の五戒十善と八斎戒である。やや深く微細なのは小乗声聞戒:沙弥戒・沙弥尼戒・比丘戒・比丘尼戒である。最も深く微細なのは大乗菩薩戒:在家菩薩戒・出家菩薩戒・瑜伽師地論菩薩戒である。これらの枝分かれ戒はすべて総綱から離れず、悪を断じ善を修める宗旨から離れない。枝分かれ戒はそれぞれ浅深異なる智慧に対応し、その中小乗戒が対応する智慧は初果から四果および辟支仏の無生忍であり、大乗戒律が対応する智慧は十住から十回向位の無生忍と初地から十地の無生法忍である。

智慧の程度が異なれば、悪を断じ善を修める程度も異なる。これらの智慧は善悪とその境界線を区別・識別できることに現れ、それによって悪法を断じ善法を行えるようになる。衆生は無明が深重で智慧がない時、何が悪法で何が善法か認識できず、善悪の行為の結果にも気を配れない。智慧は世俗の認知智慧・小乗の認知智慧・大乗の認知智慧に分かれ、智慧の程度が異なれば善悪法に対する認識も異なる。

戒律を保つ過程で、正確に善悪を弁別できることは非常に重要である。悪法とは何か?悪法とは他者の利益を侵害する行為であり、その行いは自己に益があるかもしれないし、ないかもしれないが、最終的にはすべて自身を損なう。故に悪行は智慧のない煩悩の行いである。他者の利益を侵害する一切の身口意の行いはすべて悪行であり、無明によって引き起こされる。無明が重ければ重いほど悪行も重く、無明がどの程度消除されるかで悪法もその程度に軽減する。最も粗い悪行は衆生への害が最も大きく、衆生は一般に識別・感知できる。やや微細な悪行は衆生への害が非常に明らかで直接的ではなく、識別・感知しにくく、往々にして習慣的行為によるもので、反省しにくい。最も微細な悪は最深の智慧によって破らねばならず、無明が除かれず智慧が不足すれば悪を認識できず、煩悩を攻克できない。ここに見られるように、悪を断じるには智慧が必要であり、智慧がない時は悪法の害とその結果を認識できず、悪心を降伏させられない。

善法とは何か?悪法とは反対に、衆生に有益な一切の身口意の行いはすべて善法であり、衆生に有益な行為はすべて自身にも有益である。故に自他ともに益する善行は智慧の行いであり、智慧がなければ善を行えず、智慧が深ければ深いほど善行は大きく、自他への利益も大きくなる。

仏法全体として言えば、衆生に悪を断じ善を修めさせる法である。戒律を受持することはすなわち修行であり、修行の全過程に貫かれている。世俗の大悪から小乗の小悪、さらに大乗の微悪へと至り、ついには一切の無明を滅尽して純善となる。同時に世俗の小善から小乗の無我解脱の善、さらに大乗の利他の大善、そして菩薩たちの慈悲喜捨・無縁大慈、十無尽願を経て、諸仏の極善に至り、十方の浄土を建立し一切の有情を度し尽くして善の極致に達する。戒定慧は本来一体不可分であり、一体から三つに演じられ、有情を方便に摂受して漸次修行させる。故に戒律を受持することは重要であり、我々は日常生活において常に自らの身口意の行いを反省し、悪習に流転して自覚しないままに過ごしてはならない。自覚は修行の重要な一環であり、知った後に初めて修正でき、修正すれば煩悩と業障を降伏させ、修行の正軌に乗り、遅かれ早かれ必ず仏となるのである。

——生如法師の開示
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