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日常法話

2023年09月04日    月曜日     第1開示 合計4004開示

諸法はなぜすべて空相(くうそう)なのか?

般若心経原文:舍利子。色不异空。空不异色。色即是空。空即是色。受想行识。亦复如是。舍利子。是诸法空相。不生不灭。不垢不净。不增不减。是故空中无色。无受想行识。无眼耳鼻舌身意。无色声香味触法。无眼界。乃至无意识界。无无明。亦无无明尽。乃至无老死。亦无老死尽。无苦集灭道。无智亦无得。

解釈:般若心経になぜこれほど多くの「無」があるのか?唯識でどのように理解すればよいのか?唯識の七大種子の原理でこの内容を解釈すれば、理解しやすくなります。色受想行識の五蘊の諸法は、如来蔵の中の七大種子から生成されたものであり、世俗の法相から見れば、あたかも五蘊の諸法とその機能作用があるかのように見えますが、実質から見れば、すべて如来蔵の七大種子とその作用であり、したがってすべて如来蔵の機能作用なのです。ならば五蘊諸法の世俗の相は実はすべて仮の相であり、すべて空であり、実質的には存在しないのです。したがって、色蘊は表面的には生滅のある世俗の現象に見えますが、その根本を究めれば、色蘊の生は七大種子の変幻であり、色蘊の滅もやはり七大種子の変幻であり、最初から最後まで七大種子の機能作用であって、真実の色蘊というものは語れないのです。同理、受想行識の四蘊も同様で、すべて七大種子が変幻し続けているだけで、受想行識の四蘊には何の関わりもないのです。

そして七大種子の機能作用こそが如来蔵の機能作用であり、如来蔵は七大種子を原料として、筆を振るい墨を泼ぎ、形形色色の五蘊世間を変幻して現出させます。しかしどのような場合であれ、世間の相はすべて空であり、五蘊諸法は生したことがなく、滅したこともなく、五蘊諸法には垢や浄も語れないのです。なぜなら原料は清浄 (viśuddha/pariśuddha) な七大種子であり、五蘊諸法の相は空だからです。空である以上、何を言っても戯論であり、ならば五蘊諸法の空相もまた不増不滅であり、生したことも滅したこともなく、変動したこともないのです。そして如来蔵というこの出世間の法相もまた空相であり、神様は世間の中のいかなる相貌も具えていないので、神様もまた不生不滅、不垢不浄 (na saṃkleśo na vyavadānam)、不増不滅なのです。

したがって、如来蔵というこの空性 (śūnyatā) の心、空相の心の中には何の法もなく、色蘊がなく、受想行識蘊がなく、眼耳鼻舌身意がなく、色声香味触法がなく、眼識耳識鼻識舌識身識意識がなく、無明がありません。無明尽もなく、苦集滅道もなく、十二因縁もなく、さらには智もなく得もありません。しかしすべての世俗法は結局のところすべて如来蔵の法であり、すべて如来蔵の属性なのです。

相を見ることは即ち誤りであり、相を見ることは即ち自心が自心を取ることであり、本来虚幻ではない如来蔵を虚幻の法にしてしまうのです。諸相が非相であるを見ることは即ち如来を見ることであり、もし五蘊が五蘊の相ではないこと、五蘊の相がないことを見れば、如来仏――如来蔵 (tathāgatagarbha) を見たことになります。単に相が虚妄であると見るだけでは、この段階ではまだ十分ではありません。唯識の法から見れば、虚妄法は即ち空であり、虚妄法というものはありません。しかし一真法界の角度から見れば、一真なら一切真であり、妄はなく、妄法は即ち真法であり、虚妄の相は実は真法如来蔵であり、一真法界の中の法であり、すべて如来蔵性を具えています。このように法を見ることこそが究竟なのです。唯識を学び、唯識を使えば、以前学んだことはすべて究竟ではないと感じるようになり、唯識こそが最も究竟な仏法であると分かるでしょう。

——生如法師の開示
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