舎利子よ。色は空に異ならず、空は色に異ならず。色は即ち空なり、空は即ち色なり。受想行識もまたまた如是なり。舎利子よ。これ諸法の空相は、生ぜず滅せず、垢なく浄からず、増えず減らず。故に空中には色なく、受想行識なく、眼耳鼻舌身意なく、色声香味触法なく、眼界なく、乃至意識界なく、無明なく、また無明の尽くることもなく、乃至老死なく、また老死の尽くることもなし。苦集滅道なく、智もなく得もなし。
釈:心経になぜこれほどの「無」が説かれるのか。唯識で如何に理解すべきか。唯識の七大種子の原理を用いてこの内容を解釈すれば、容易に理解できる。色受想行識の五蘊諸法は如来蔵中の七大種子より生じたものである。世俗の法相から見れば、あたかも五蘊諸法とその機能作用が存在するように見えるが、実質的には全て如来蔵の七大種子とその作用である。故に五蘊諸法の世俗相は実は仮相であり、空であって実在しない。色蘊は表面的には生滅する世俗現象があるように見えるが、根本を究めれば、色蘊の生も七大種子の変幻であり、色蘊の滅も七大種子の変幻である。初めから終わりまで七大種子の機能作用であって、真実の色蘊は存在しない。同様に受想行識の四蘊もまた七大種子が絶えず変幻しているだけで、本来受想行識の四蘊など存在しない。
七大種子の機能作用は即ち如来蔵の機能作用である。如来蔵は七大種子を原料として、多彩な五蘊世間を描き出す。しかし如何なる場合でも、世間の相は空であり、五蘊諸法は生じたことも滅したこともない。五蘊諸法に垢や浄を論ずることもできない。原料が清浄な七大種子である以上、五蘊諸法の相は元より空である。空である以上、如何なる言説も戯論に過ぎず、五蘊諸法の空相も増減せず、生滅せず、変化したこともない。如来蔵という出世間の法相もまた空相であって、世間における如何なる相貌も持たない。故にこれも不生不滅、不垢不浄、不増不減である。
故に如来蔵という空性心・空相心には何らの法も存在せず、色蘊なく、受想行識蘊なく、眼耳鼻舌身意なく、色声香味触法なく、眼識耳識鼻識舌識身識意識なく、無明もない。無明の尽きることもなく、苦集滅道なく、十二因縁なく、智も得もない。しかし全ての世俗法は究極的に如来蔵法であり、如来蔵の属性である。
相を見ることは即ち誤りであり、相を見ることは自心が自心を取ることに他ならない。本来虚妄でない如来蔵を虚妄の法としてしまう。もし諸相が相でないことを見れば、即ち如来を見る。五蘊が五蘊の相でなく、五蘊の相がないことを見れば、如来仏――如来蔵を見たのである。ただ相の虚妄性を見るだけでは不十分である。唯識法から見れば、虚妄法は即ち空であって、虚妄法など存在しない。しかし一真法界の角度から見れば、一真は全て真であり、虚妄はない。虚妄法は即ち真法であり、虚妄相は実は真法如来蔵そのものであって、一真法界中の法である。全てが如来蔵性を具えている。このように法を見ることが究竟なのである。唯識を学び、唯識を用いれば、従来の学びが究竟でなかったことを悟る。唯識こそが最も究竟な仏法である。
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