衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年09月02日    土曜日     第1 回の開示 合計4003回の開示

供養を行って金銭的利益を得ることはどのような業報をもたらすのでしょうか。

まず明確にする必要があるのは、この金銭獲得の方法が公正かつ正当な取引であるかどうかです。もしそうでなければ、その性質は詐欺または詐騙に該当します。その場合、騙す行為と性質に基づいて罪を量り、果報を評定します。公正かつ正当な取引とは何でしょうか。それは売買双方がそれぞれ期待する利益または益を得るべきであり、もし一方のみが利益を得て他方が何も得られない場合は、不公平な取引となります。

次に、この取引が正当かどうかを検討します。この事柄の正当性は多面的に衡量されます:第一に、その人物に供養を行う資格があるかどうか。第二に、その人物に供養を行う能力があるかどうか。第三に、苦海から衆生を救済する供養行為に対価を請求すべきかどうか、またその料金基準は何か。

上記の問題を明確にするには、「供養」という言葉の概念と内包を整理する必要があります。供養とは何でしょうか。供養とは、高エネルギー・高徳行・高素質の高位菩薩、あるいは衆生、または僧宝が、仏経・呪文・仏語を誦読することを通じて、諸仏菩薩の加護力を祈請し、三悪道の衆生の業障を軽減させ、一定の福徳を獲得させ、三宝を信受させ、それによって三悪道から脱出できるようにすることです。したがって供養とは、諸仏菩薩三宝と供養者本人の共同の功徳力・福徳力、そして慈悲力によって、悪道の衆生を苦海から救済し、罪報を軽減する行為です。

もし供養者が金銭目当てで供養を行うならば、まずその徳行が不足し、福徳も慈悲も備わっていません。このような者は諸仏菩薩三宝の護持と加護を感じることができず、全ての誦読は功徳を生まず、罪業の衆生は利益を得られません。供養そのものは個人の力だけで成し得るものではなく、個人の徳行修養に加え諸仏菩薩三宝の威神力が共同で成すものです。個人に威神力がないだけでなく、どうして三宝の威神力を利用して個人の金銭獲得に用いることが許されましょうか。いかなる者が三宝を利用して財を成し、富を築く資格と胆力を有するのか。これは三宝の金銭を稼ぐ行為ではありませんか。三宝の金銭を誰が得ようとするのか。命さえ惜しまず、全てを捨てる覚悟があるのでしょうか。

因果を真に理解し、諸仏菩薩三宝に感恩の念を抱く者が、どうして三宝を利用して金銭を得ようとする胆量や忍びる心を持ち得ましょうか。菩薩が衆生を救済するのは菩提心のため、苦難の衆生のため、諸仏菩薩三宝への恩返しのためであり、決して自己の利益のためではありません。菩薩が衆生を教化する際、決して料金を取らず、金銭を求めず、いかに多くの精力を費やして教義や書籍を執筆しても、全て衆生に無償で提供します。

なぜならこれは個人の力で成し得る偉大な事業ではなく、菩薩の全ての智慧は諸仏菩薩三宝に由来するものであり、恩返しする暇もないほどなのに、どうして三宝の威徳を利用して私利を図ることができましょうか。もしこのような行為を行えば、それは菩薩ではなく、三宝を利用して金銭を得る者、三宝の書籍等を販売して利益を得る者は真の菩薩でも真の善知識でもありません。このような恩知らずの販売行為を「裨販如来」と呼びます。裨販如来とは魔業であり、魔の果報を受けます。三宝を利用して金銭を得るとは、三宝の金銭を稼ぐことであり、このような金銭は得れば得るほど貧しくなり、最終的には悪道に堕ちて貧苦の悪報を受けるのです。

——生如法師の開示
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