楞嚴呪を非常に速い速度で唱えることに慣れると、暗唱は基本的に困難ではなくなります。これはなぜでしょうか。唱えることは意識の機能作用であり、記憶は意根の機能作用だからです。意識が非常に熟練して唱えられるようになると、意根もそれに応じて十分に薫染されます。このとき、呪文を非常に速い速度で唱えられるようになると、意識に雑念や妄念がなくなるだけでなく、意根にも雑念や妄念がなくなり、専一に呪文を薫習できるようになります。自然と呪文を記憶できるようになり、それによって意識が熟練して暗唱できるようになります。わざわざ暗唱の練習をしなくても自然に暗唱できるのです。
そして専一とは禅定であり、雑念を除去し、全ての精力を一つの事柄に集中させることです。干渉がなければ、その事柄は成就します。したがって禅定があれば全ての事を成し遂げられ、慧も現れます。意根と禅定の二つが和合すれば全ての事を成し遂げられ、全ての法の成就は意根と禅定を離れてはありえません。ですから禅定は主に意根という主将の定を指し、六識という従者は主将に従って進退を共にし、定止を共にします。一つの問題に遭遇したとき、意根が深く専一に思考し、他の一切の法縁や境界を顧みなければ、定力が急速に増強され、問題の根源に到達できる可能性があり、智慧が湧き出るのです。
速くすることで禅定が現れ、遅くしても同様に禅定が現れます。ゆっくりと呪文を読誦し、非常に遅くなるほど、このときも非常に専一になり、意識に妄念がなく、意根にも妄念がなく、専心して意識の薫習を受け入れます。呪文が徐々に意根の心に入り、呪文を心に記憶します。その後、暗唱できるようになります。非常に速く呪文や経典を唱えることと、非常に遅く唱えること、この二つの方法にはそれぞれ利点と欠点があります。速い場合は散乱が生じる可能性があり、遅い場合は昏沈が生じる可能性があります。随時調節する必要があります。二つの方法は適用する場面が異なり、どの場面ではどの方法を用いるかは、各自が自ら体験し、柔軟に掌握してこそ、最良の効果に到達できるのです。
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