第一は虚空無為である。これは心の働きが虚空のように作為なく、清浄澄み渡り、一つの法も執着すべきものなく、一つの法も分別せず、心量広大にして一切の物を包容し、一切の物を包容しながらも一切の物を分別せず、その容量と心量に影響されることなく、如如不動のまま万象を発揮させ、生滅去来があっても自心は微塵も動じないことを指す。このような無為は如来蔵の永遠なる無為を指す。ただし第七識の心も修行を経て最終的にこの無為を成就でき、ここに至って修行は究竟徹底的に円満する。
第二は択滅無為である。これは第六・七識が諸法に対応する際、智慧による択滅を経て、一部の有為法を滅除し、心が清浄無為となり、心が空・無相・無願となることを指す。この無為法は選択と分別を経て、ある法を造作しないことを選ぶことで現れる、無から有への無為であり、生滅性を有する無為で、不断に増減可能な無為である。これは如来蔵の先天的不変無為とは異なる。
如来蔵のこの無為法に択滅の心行はあるか。如来蔵は世間法を分別しない故に選択を加えず、ただ種子を分別し、種子の成熟の有無や現行の必要性を分別した後に初めて諸法を出生するかを選択する。如来蔵の選択は第六・七識のような思慮を伴わず、極めて迅速に決断を下し、過程がほとんどなく自動化されたプログラムの如く、これは大智慧の現れである。巨大な智慧が極限に達すると、固定化されたプログラムの如く、心行の変動なく、智慧も増減せず、心行も増減しない。如来蔵は七識の心行を了別し、七識の心行にも選択を加え、縁があれば応じ、因縁と種子がなければ応じない。この時七識は意のままにならない。如来蔵は選択を加えるが、何らかの法を滅することはない。無心であるが故に自らの心行を滅することなく、従って如来蔵に択滅無為法は存在しない。
第三は非択滅無為である。上述の通り、如来蔵は非択滅無為性を有し、その無為は択滅によって現れるものではなく、本来より無為である。その心行は増減せず、如何なる状況でも有為の心行を滅することなく、当然有為の心行を増やすこともない。第六・七識は修行を通じ、禅定と智慧が不断に増大し、心が次第に清浄無為となり、善き清浄の習性が形成され、遂には選択を経ずとも心行処滅の無為を達成する。
第四は不動無為である。この無為は二種に分かれる。一つは如来蔵が諸法に対し心動転せず如如不動なる無為性、もう一つは妄心である七識が六塵境界に対し心動転せぬ無為性で、通常は禅定が第四禅に至った時の身心不動の境界を指す。
第五は想受滅無為である。これは滅尽定において六識が滅し、意根が想と受の二種心所法を滅除し、法塵境界に対し想も受もなく、心が極めて清浄なる無為性を指す。
第六は真如無為である。これは真如が世俗界に対し完全に無為であり、如如不動で如何なる心行もないことを指す。七識のような見聞覚知性を持たないため、世俗界を分別せず、世俗界を知らず、諸法を知らず、諸法に対し如何なる貪愛も厭離もなく、心は純粋なる無為である。
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