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煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
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日常開示

2023年08月26日    土曜日     第2 回の開示 合計4000回の開示

意根は重大な法塵だけを了別することは不可能である。

問:「意は刀剣の鋒(きっさき)の如く、自らを割くこと能わず」とは、第七識である意根(末那識)を指す。仏説によれば、この第七識は意根と称され、意識の種子が第八識から現起する動力である。意識は末那識の作意に依って初めて現起し、現起後は全て意根・末那識の作意に従って運行する。故に末那識は意識の根と説かれる。この意根の別境慧は極めて劣り、五塵上の法塵に対して極めて単純な了別しか行えない——例えば五塵上の法塵に大きな変動があるか否かなど。第七識は意識の覚知心のように五種の別境心所法を敏捷に運用できず、「欲・勝解・念・定」の心所法を具えず、慧心所(別境慧)の機能も極めて劣り、法塵上の変化に対して極めて単純な了別しか行えない。

かくの如く、五塵境すら了別できず、意識を喚起した後、意識の別境慧に依って初めて諸境界に対し種々の思量を為すというなら、どうして自らを反観する能力があり得ようか。どうして諸法を思惟する能力があり得ようか。どうして自らの心行及び習気を修正する能力があり得ようか。故にこの第七識は極めて敏捷に一切法を遍縁し、意識心の別境慧に依って処々に作主し、時々に作主し、更に種々の心行を思量決定できるが、意識の別境慧を離れれば何も為し得ない。このような体性により、仏は「意(意根末那識)は刀剣の鋒の如し」(一切法を遍縁する敏捷性を喩える。意識には別境慧あるも一切法を遍縁できず)と説き、「自らを割くこと能わず」(別境慧の「証自証分」なきが故に自らの善悪心行を修正できぬことを喩える)と説かれた。即ちこの識が「その染汚性を改め、清浄なる意根に転換せん」と欲するには、意識の別境慧及び思惟慧に依らねばならず、唯その自身の機能のみに依っては自らに相応する煩悩を断除し得ない。故に仏は「意は刀剣の鋒の如く、自らを割くこと能わず」と説かれたのである。

上記の文章は何処か違和感を覚えるが、分析して解説頂けないか。

答:意根が重大な法塵のみを了別するとの説は、仏説の「意根は黙容一切法」に反する。意根が一切法を遍縁するなら、如何なる法も縁できずということはない。上記の文では意根が五塵上の法塵のみを縁じ、且つ重大で変化あるものに限定しているが、これほど多くの制約があれば、意根には遍縁できない法が多数存在することになり、仏説の意根遍縁一切法の宗旨に矛盾する。

例えば太陽観想を一時間或いは半日続ける場合、太陽は一時間内に変化しない。では意識は何故観続けられるのか。意根が変化しない太陽を縁じないというのか。意根が何の法を縁じるかによって、意識はその法を了別する資格を得る。意識が知り、六識が了別するものは全て意根が縁じた法である。どうして意根が五塵上の重大で変化ある法塵のみを縁じると言えるのか。『楞厳経』に「意根は黙容一切法」とある。微細な六塵境を意根が縁じ得なければ、黙容一切法とは言えず、微細な六塵境界は六識が永遠に知り得ないことになる。

意根に欲がなければ、作意を起こさず、六識も生起せず、万法も現れない。眼識が多数の色彩中から紫色を選択するのは意根の決定による。これにより意根も五塵境を縁じ、六識にその五塵境を了別させる作主を為すことが分かる。意根が五塵境を縁じ触れなければ、五識は生起して五塵境を了別せず、五塵境に対する択択性も失われる。意根に縁じ得ない法があれば、意根は遍縁一切法ではない。

意根に勝解がなければ、常に曖昧模糊で作主できず、正しく理に適い如実如法な事も為せず、危険を避けられず、転識成智もできない。意根に念がなければ、意識に念を起こさせず、何の法も現れず、念仏もできず、参禅もせず、万法は現れない。意根が思量できなければ、意識が意根を熏習する意味がなく、転識成智もできず、智慧も現れない。意根に定がなければ、六識が如何に修定しても定まらない。

意根が善悪心行を修正できなければ、永遠に心行を改められず、悪は永遠に悪のままである。如何にして煩悩を降伏し断除できようか。意識が意根を熏習しても何の効果もなく、功を奏さない。前段の文章で意根に反観力がなく証自証分がないとするが、仏は八識全てに証自証分があると説かれる。衆生が自己を信じ頑迷なるのは、意根の証自証分が作用するからである。強情に固執し疑わず、これが意根の証自証分であり、自らを正しいと認める所以である。

意根には恒審思量の作用があり、一切法はその審査を経て初めて通過し、択択される。意根の慧が常に劣るなら、如何に合理的に審査し、智慧の択択を為し得ようか。智慧の択択ができなければ、衆生の身口意行は常に愚痴無智を現じ、世間に聡明人が存在し得ようか。仏法を学び如何にして智慧を開き仏と成れようか。さらに、意根が思量するには自らの智慧に依るべきで、如何にして意識の別境慧に依るというのか。この説は甚だ奇怪で、甲が問題を思考するに乙の智慧を借りる如く、論理の片鱗も合わない。上記の文章は誤りが多すぎるが、詳細は機会を改めて分析する。

——生如法師の開示
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