問:ある人が言うには、「意は刀剣の刃の如く、自らを切ることができないというのは、第七識である意根、またの名を末那識のことを指す。仏はこの第七識を意根と名付け、それは意識の種子が第八識から現起する動力であるため、意識は末那識の作意に依って初めて現起し、現起後は全て意根である末那識の作意に従って運行する。ゆえに末那識は意識の根であると言われる。この意根の別境慧は極めて劣っており、五塵上の法塵に対して極めて単純な了別しか行えない——例えば五塵上の法塵に大きな変動があるかどうかといったことである。この第七識は意識の覚知心のように五つの別境心所法を機敏に運営することはできず、「欲・勝解・念・定」の心所法を持たず、慧心所(別境慧)の機能も極めて劣り、法塵上の変化に対して極めて単純な了別しか行えない。
このように、五塵境すら了別できず、意識を喚起した後、意識の別境慧に依って初めて諸々の境界に対して種々の思量を行うことができるのに、どうして自らを反観する能力があり得ようか?どうして諸法を思惟する能力があり得ようか?どうして自らの心行や習気を修正する能力があり得ようか?それゆえ、この第七識は極めて機敏で一切の法を遍く縁り、また意識心の別境慧に依って処処で主となり、時々刻々に主宰し、また種々の心行を思量して決定することができるが、しかし意識の別境慧を離れれば、何も為すことができない。このような体性により、仏は意(意根末那識)を刀剣の切っ先の如し(一切の法を遍く縁る機敏性を喩えたもの。意識には別境慧があるが、一切の法を遍く縁ることはできない)と説きながらも、自らを切ることはできない(別境慧の「証自証分」を持たないため、自らの善悪の心行を修正できないことを喩える)と言われた。これは、この識が「その染汚性を変え、清浄な意根へと転換しよう」とするには、必ず意識の別境慧及び思惟慧に依らなければ、何らかの転換が可能であり、自身の機能のみに依って自らに相応する煩悩を除断することはできないことを意味する。それゆえ仏は「意は刀剣の切っ先の如く、自らを切ることはできない」と言われたのである。
上記の文章はどうもどこかおかしく感じられるが、分析して解説していただけないか?
答:意根が重大な法塵のみを了別するというのは、仏の説かれた意根が一切の法を黙って容れるという説に反する。意根が一切の法を遍く縁るのであれば、いかなる法も縁ることができ、縁れない法はない。しかし上記の文章では、意根が五塵上の法塵のみを縁り、しかも重大で変化のあるものに限られ、これほど多くの制約があり、意根に遍く縁れない法がこれほど多くあるのは、仏の説かれた意根が一切の法を遍く縁るという宗旨に反する。
例えば太陽を観る場合、一時間あるいは一日半日観続けることができるが、太陽は一時間では何の変化もない。なぜ意識は観続けられるのか?意根は変化しない太陽を縁らないのだろうか?意根がどの法を縁るかによって、意識はその法を了別する資格を得る。意識が知るもの、六識が了別するものは、全て意根が縁り、了別しようと決定した法である。意根がどうして五塵上の、それも重大で変化のある法塵のみを縁ることができようか?『楞厳経』には、意根は一切の法を黙って容れると説かれている。微細で細かな六塵境を意根が縁れなければ、一切の法を黙って容れることにはならず、そうなれば微細で細かな六塵境界は六識が永遠に知ることはない。
意根に欲がなければ、造作しようとせず、六識も生じず、万法も現れない。眼識が多くの色彩の中から紫色だけを選択するのは、意根が決定するからである。これにより、意根も五塵境を縁り、主となって六識にその五塵境を了別させていることが分かる。もし意根が五塵境を縁らず触れなければ、五識は生じず五塵境を了別せず、五塵境に対する選択性もなくなる。意根が縁れない法があれば、意根は一切の法を遍く縁るものではない。
意根に勝解がなければ、常にうつろで主となることができず、正しく理にかなった、真実の、法に適ったことも行えず、危険を避けることもできず、識を智に転ずることもできない。意根に念がなければ、意識を出して念じさせることもできず、いかなる法も現れず、念仏も念じられず、参禅もしたくなくなり、万法は現れない。意根が思量できなければ、意識が意根を熏染することに意味がなく、まして識を智に転ずることもできず、いかなる智慧も現れない。意根に定がなければ、六識がどのように定を修めても定まらない。
意根が善悪の心行を修正できなければ、永遠に心行を変えることができず、悪は永遠に悪のままで、どうして煩悩を降伏し断除できようか?意識が意根を熏染することも全く効果がなく、功を無駄にする。前段の文章では意根に反観力がなく証自証分がないとあるが、仏は八つの識全てに証自証分があると説かれている。衆生がこれほど自分を信じ、非常に頑固なのは、意根の証自証分が作用しているからである。頑なに信じて疑わないのは意根の証自証分であり、自分が正しいと信じ込んでいるのである。
意根には恒に審査し思量する作用があり、一切の法は必ずその審査を経て初めて通過し、選択を下すことができる。意根の慧が常に低劣であれば、どうして合理的に審査・批准できようか?どうして智慧ある選択を下せようか?智慧ある選択を下せなければ、衆生の身口意行は時々刻々愚痴無智の性を表し、世の中にどうして賢い人が存在できようか?仏法を学んでどうして智慧を開き仏となることができようか?さらに言えば、意根が思量するには、自らの智慧に依って思量すべきであり、どうして意識の別境慧に依って思量できようか?この説は奇妙であり、甲が問題を思考するのに乙の智慧に依り、乙の脳を借りるようなもので、全く論理に合わない。上記の文章は誤りが多すぎるので、また時間があれば詳細に分析したい。
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