衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年08月26日    土曜日     第1 回の開示 合計3999回の開示

百法明門における無為法


『百法明門論』には六種の無為法が説かれており、その中には真実心たる如来蔵の本来無為もあれば、七識の妄心が後に修して現れた無為も含まれ、真妄共に包摂されています。虚空無為とは、如来蔵の本体が一切の法を運転する際、虚空の如く如如不動であることを指し、これが無為の性質であります。如来蔵は常に如如不動であり、如何なる境界に遭遇しても決して心を動かすことなく、その心性は無為であります。真如無為とは如来蔵の無為を指し、非択滅無為もまた如来蔵の無為を指します。不動無為とは七識が四禅定に至った時、心が念いを動かさず無為となり、身体に呼吸・脈搏・心拍がなくなり、無為不動となることを言い、身心共に無為となることを不動無為と称します。択滅無為と想受滅無為は、共に七識の無為を指します。意根は滅尽定において想と受が消失し、作意・触・思のみが残り、心行の大部分が無為となります。

実のところ如来蔵は本来無為の法であり、心性が無為であるにも拘わらず、衆生のために五陰に奉仕する有為性を妨げず、有為の中にあって心性は断然として無為であります。如来蔵の無為なる心性を超える法が存在するでしょうか。決してありません。七識は永遠に如来蔵より無為ではあり得ず、五蘊も永遠に如来蔵より無為ではあり得ません。如来蔵より更に無為なる法は存在しないのです。七識は相当に修練を積んで初めて次第に無為となり、後天的に修得された無為は生滅を有する法であります。


——生如法師の開示
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