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日常法話

2023年08月29日    火曜日     第1開示 合計4001開示

六種の無為法

第一は虚空無為である。これは心行が虚空のように無為であり、清浄で澄みきっており、一つの法も情に当たらず、一つの法も分別せず、心量は広大で一切の物を容れ、一切の物を容れながらも一切の物を分別せず、その容量と心量にも影響されず、如如不動で万象が発揮するに任せ、生滅去来しても自心は微塵も動かないことを意味する。このような無為は如来蔵のあの永遠の無為を指す。しかし七識の心も修行を通じて最終的にはこのような無為を成就することができ、ここに至って修行は究竟徹底して円満となる。

第二は択滅無為である。これは六七識が諸法に対応する際、一連の智慧による択択の後に、一部分の有為法を滅除し、心が清浄無為となり、心中が空・無相・無願となることを意味する。この無為法は何らかの択択と分別を経て、特定の法を造作しないことを選択した結果現れるものであり、無から有への無為であり、生滅性のある無為であり、絶えず増減しうる無為であって、如来蔵のあの先天から備わった不変の無為ではない。

では、如来蔵のこの無為法には、択滅の心行があるだろうか。如来蔵は世間法に対して分別性を持たないため、択択を加えることもない。それはただ種子を分別し、種子の成熟の有無や現行の必要性について分別性を持ち、分別した後に初めて諸法を出生するか否かを択択する。如来蔵の択択は六七識のように思慮を巡らすものではなく、極めて迅速に択択を下し、ほとんど過程がなく、あたかも自動化プログラムのようである。これは大智慧の体現である。巨大な智慧が極限に達した時は、全て固定化されたプログラムの如く、何ら心行の変動がなく、智慧も増減せず、心行も増減しない。如来蔵はまた七識の心行を了別し、七識の心行に対しても何らかの択択を行い、適応できるならば適応し、因縁や種子がない場合は適応せず、この時七識は思い通りにならない。如来蔵は択択を行うが、何らかの法を滅することはない。なぜならそれは無心であり、自らの心行を滅することはないからである。したがって如来蔵には択滅無為法は存在しない。

第三は非択滅無為である。以上をまとめると、如来蔵は非択滅無為性を有しており、如来蔵の無為は全て択滅によって現れたものではなく、本来から無為なのである。その心行は増減せず、いかなる状況でも何らかの有為の心行を滅することはなく、もちろん何らかの有為の心行を増やすこともない。一方、六七識は修行を通じて禅定と智慧が絶えず増大し、心はますます清浄無為となり、善き清浄の習性が形成され、ついには択択を経ることなく心行処滅の無為を達成するに至る。

第四は不動無為である。この無為は二種類に分けられる。一つは如来蔵が諸法に対して心が動転せず如如不動である無為性を指し、もう一つは妄心である七識が六塵の境界に対して心が動転しない無為性を指す。通常は禅定が四禅に至った時の身心不動の境界を指す。

第五は想受滅無為である。これは滅尽定において六識が滅し、意根がさらに想と受という二つの心所法を滅除し、法塵の境界に対して想も受もなく、心が極めて清浄である無為性を指す。

第六は真如無為である。これは真如が世俗界に対して完全に無為であり、如如不動でいかなる心行もないことを指す。真如には七識のような見・聞・覚・知の性質がないため、世俗界を分別せず、世俗界を知らず、諸法を知らず、諸法に対して何ら貪得や厭棄の心がなく、心は純粋な無為である。


——生如法師の開示
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意根は重大な法塵だけを了別することは不可能である。

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