『百法明門』には六種の無為法が説かれており、その中には真実の心である如来蔵の本来の無為もあれば、七識の妄心が後に修得した無為も含まれ、真妄ともに包含されています。虚空無為とは、如来蔵の本体が一切の法を運転する際、虚空のごとく如如不動であることを指し、これが無為の性質です。如来蔵は永遠に如如不動であり、いかなる境界に遭遇しても決して心を動かさず、その心性は無為です。真如無為は如来蔵の無為を指し、非択滅無為もまた如来蔵の無為を指します。不動無為とは、七識が四禅定に至った時、心が念いを動かさず無為となり、身体に呼吸・脈搏・心拍がなくなり、無為不動となることを指します。身心ともに無為となることを不動無為と呼びます。択滅無為と想受滅無為は、いずれも七識の無為を指します。意根は滅尽定において想と受を失い、作意・触・思のみが残り、心行の大部分が無為となります。
実際、如来蔵は本来無為の法であり、その心性は無為であっても、衆生のために五陰に奉仕する有為性を妨げることはありません。有為の中にあって、心性は断固として無為です。如来蔵の無為なる心性を超える法があるでしょうか。存在しません。七識は永遠に如来蔵よりも無為たり得ず、五蘊も永遠に如来蔵よりも無為たり得ません。如来蔵よりも無為なる法は存在しないのです。七識は相当に修練を積んで初めて徐々に無為となり、後天的に修得された無為は生滅を有する法です。
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