衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法师のウェブサイトロゴ

日常開示

2023年08月21日    月曜日     第1 回の開示 合計3996回の開示

如来蔵には無為性もあり有為性もあります

無為法は二種に分けられます。一つは如来蔵本来の無為性を指し、もう一つは七識の妄心が修行を通じて後天的に修得した無為の心性を指します。八識の中では如来蔵のみが本来無為の心であり、無為法に属します。それは空性の心であるため、一切の法相を造作する心がなく、一切の業行を造作する心もありません。因縁が具わらない時には、いかなる法も出生せず維持しません。如来蔵は常に縁に随って変わらず、変わらずに縁に随います。その無為の特徴とは随縁であり、波に身を任せるがごとく、自我の主張がなく、縁がないか縁が具わらなければ無理に事を為しません。如来蔵には我性がなく自らを主張せず、心は空無為であり、相なく願いもないため、如来蔵は無作です。よって如来蔵は作主識ではなく、我あるものこそが作主を求め、甚だしきは我を主としますが、如来蔵は無我であるが故に、いかなる法を主導しようとする意志も持ちません。

如来蔵は無為性と有為性を兼ね備えています。無為性とは自心の本性が無為であり、一切の法に対し無心に行うことで、能動的に何かを造作しようとする心念がなく、一切の法に作主しません。如来蔵が万法を出生する際には造作と心行がありますが、心性は依然として無為のままであり、自らが何を造作しているかを知らず、境界法に対し全く無知で知ろうとせず、しかも縁に随って一切の法を出生します。無数の世俗法を造り出しながらも、心は依然として空・無心・無願・無起滅・無作主性・無我性を保っています。如来蔵は無我性であり、無我とは即ち無為であり、自我のためでもなく、いかなる目的のためでもなく、私利を求めません。もし如来蔵が無為法でなければ、世出世間に更に無為法は存在せず、七識が如何に無為であろうとも如来蔵の無為には及ばず、仏地の七識でさえも同様です。

もし無我の心がなお有為法に属するならば、重大な矛盾が生じます。如来蔵が純粋に有為法であれば、必ず生滅するはずです。如来蔵は如何に有為なのでしょうか。世俗法を造作することが有為でありながら、有為の中に無為を保っています。もし如来蔵が純粋に有為であるならば、七識は如来蔵に何を学ぶべきでしょうか。七識は如何にして如来蔵に近づき、如来蔵に学んで自らの心性を改めることができましょうか。七識は如何にして一切の境界に対し如如不動であり得ましょうか。七識は如何にして徹底的な無為を達成し仏道を成就できましょうか。如来蔵が純粋な有為法であるならば、私たちが禅を参じて如来蔵を証得する必要もなく、悟った後も如来蔵の清浄無為性に転依することは叶わず、七識は永遠に心性を転換できず、こうして悟ると悟らざるとにかかわらず成仏は不可能となります。

——生如法師の開示
前の記事前の記事

念仏三昧は意根の成就である

次の記事 次の記事

有為法とは何か

ページのトップへ戻る