一切の有為法は如来蔵の虚妄なる幻化によって現れた仮の相であり、人類は十分に交流し表現するために、これらの法相に相応する名を仮設する。名がなくても分別は可能だが、その場合衆生同士の言語交流は不便となり、互いの指すところを明確にできなくなる。畜生は決して有為法に名相を仮設しないが、それでも分別する。ただし相互の交流伝達はできず、ただ以心伝心するのみで、言葉で伝えることはできない。
法を学び修行することにより、相と名の上に如理に思惟観行すれば、如实智を獲得する。相と名の実質的な内実を如実に分別了知し、有為法の虚妄不実を深く悟り、心は有為法によって動転することなく、真如の如く如如不動となる。こうして七識心は真如から離れることが次第に少なくなり、真如にますます近づき、最後には心は真如の如く清浄となり、修行が完遂するのである。
諸仏菩薩が現起する三千大千世界は有為法であるが、それはいったい何なのか、それとも何でもないのか。これらの有為法は全て如来蔵の中の形も相もない種子から生成されたものであり、空なる幻化であって実体ある法は存在しない。故にこれらの有為法が何であるとは言えない。しかしまたこれらの有為法が何でもないとも言えない。なぜならこれらの有為法は相の上では依然として存在し、それ相応の虚妄なる世俗法上の功用を有しているからである。これらの功用もまた幻化されたものではあるが、実際には全て如来蔵の功用である。しかしこれらの功用は確かに作用を有しているため、有為法と呼ばれるのであり、そうでなければ無為法となる。
有為法が有為法と呼ばれる所以は、まさに世俗界における法相と功用が存在するからである。そこでこれらの有為法相を何某と名付け、分別し執取する便宜を図るのである。智慧ある者は心中これらの有為法の真実の相を明らかに了知している。依然としてこれらの有為法を使用する必要はあるが、全く拘礙なく違和感なく用い、心には貪りも怒りもなく偏執せず、行う一切が真諦にも俗諦にも背かず、大智慧をもって菩薩の利生事業を担うのである。
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