衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年08月23日    水曜日     第1開示 合計3997開示

有為法とは何か

一切の有為法は如来蔵の虚妄なる幻化によって現れた仮の相であり、人類は十分に交流し表現するために、これらの法相に相応する名を仮設した。名前がなくても分別は可能であるが、その場合、衆生同士の言語交流が不便となり、各自が指すところを明確にできなくなる。畜生は決して有為法に名相を仮設しないが、それでも分別はしており、ただ相互の交流疎通はできず、以心伝心のみで言葉では伝えられない。

法を学び修行することを通じて、相と名の上に如理に思惟観行すると、如実智を得るようになる。相と名の実質的な内包を如実に分別了知し、有為法の虚妄不実を深く悟り、心はもはや有為法によって動転せず、真如のごとく如如不動となる。こうして七識心は真如から離れることが次第に少なくなり、ますます真如に近づき似てきて、最終的に心は真如のように清浄となり、修行が完遂するのである。

諸仏菩薩が現じる三千大千世界は、すなわち有為法である。それはいったい何なのか、それとも何ものでもないのか。これらの有為法はすべて如来蔵内の無形無相の種子から生成されたものであり、空なる幻化であって実質的な法は存在しない。したがってこれらの有為法を何かであるとは言えない。しかしまたこれらの有為法を何ものでもないとも言えず、これらの有為法は相の上では依然として存在し、それ相応の虚妄なる世俗法上の功用があり、これらの功用もまた幻化されたものではあるが、実際にはすべて如来蔵の功用である。しかしこれらの功用は確かに作用を有しているため、有為法と呼ばれるのであり、そうでなければ無為法となる。

有為法が有為法と呼ばれる所以は、世俗界の法相と功用が存在するためであり、そこでこれらの有為法相を何某と名付けて、分別と執取を便宜的に行うのである。智慧ある者は心中でこれらの有為法の真実の姿を極めて明らかにしており、依然としてこれらの有為法を使用する必要はあるものの、全く拘礙も違和もなく用い、内心は坦然として貪りも瞋りもなく、また偏執もせず、行う一切は真諦にも背かず俗諦にも背かず、大智慧をもって菩薩の利生事業を担うのである。


——生如法師の開示
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如来蔵には無為性もあり有為性もあります

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