無為法は二種類に分けられる。一つは如来蔵本来の無為性を指し、もう一つは七識の妄心が修行を通じて後天的に修得した無為の心性を指す。八つの識の中で如来蔵のみが本来から無為の心であり、無為法に属する。それは空性の心であるため、一切の法相を意図的に造作せず、一切の業行を意図的に起こさず、因縁が具わらない時にはいかなる法も出生・維持しない。如来蔵は常に「縁に従って変わらず、変わらずに縁に従う」という特質を持ち、その無為の特徴は流れに身を任せ、自己主張がなく、縁が無いか不十分な時には無理をしないことである。如来蔵には我性がなく、自ら主宰しない。また心は空無為であり、無相無願であるため、如来蔵には作為がない。よって如来蔵は主宰識ではなく、我があるからこそ主宰しようとし、ひいては我を主とするが、如来蔵は無我であるため、いかなる法を主導しようとする意志も持たない。
如来蔵は無為性と有為性の双方を備えている。如来蔵の無為性とは、自心の本性が作為を持たず、一切の法に対して無心で行動し、能動的に何らかの法を造作しようとする心念がなく、一切の法に対して主宰しないことを指す。如来蔵が万法を出生する際には造作と心行が存在するが、心性は依然として無為であり、自らが何を造作しているかを知らず、境界の法について全く知ろうとせず、しかも縁に従って一切の法を出生する。無数の世俗法を造り出しているにもかかわらず、心は依然として空・無心・無願・起滅無し・主宰性無し・我性無しの状態である。如来蔵は我性がなく、無我であるが故に無為であり、自我のためでも、いかなる目的のためでもなく、私利を持たない。もし如来蔵が無為法でなければ、世間も出世間も無為法は存在せず、七識がいかに無為であろうとも如来蔵の無為には及ばず、たとえ仏地の七識であっても同様である。
もし無我の心が依然として有為法に属するならば、それは重大な矛盾である。もし如来蔵が純粋に有為法であるならば、それは必ず生滅する。如来蔵はどのように有為なのか。世俗法を造ることが有為であり、その有為の中に無為がある。もし如来蔵が純粋に有為であるならば、七つの識は如来蔵に何を学ぶべきか。七つの識は如何にして如来蔵に近づき、如来蔵に学んで自らの心性を変えるのか。七つの識は如何にして一切の境界に対し如如不動であり得るのか。七つの識は如何にして徹底的に無為を達成し仏道を成就し得るのか。もし如来蔵が純粋に有為法であるならば、私たちが参禅して如来蔵を証得する必要もなく、悟った後も如来蔵の清浄無為性に転依することはできず、七つの識は永遠に心性を転換できない。そうなれば悟っても悟らなくても成仏は不可能である。
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