念仏には三つの段階がある。最も浅い段階は意識のみで念仏する状態で、意根が念仏に参与しない。これは形式に流れた散心念仏であり、見せかけの念仏に過ぎない。真の念仏とは言えず、諸仏との感応もなく、念仏の功徳は極めて小さい。次に、意根と意識が共に念仏する段階では、浅い禅定が生じ、半ば摂心した念仏となる。諸仏と微かな感応があり得る。最も深い段階は意根が独りで念仏する状態で、念仏が比較的誠実となり、諸仏との感応が生じ、念仏三昧を引き起こし得る。この念仏の功徳は大きい。
意識による念仏では、意根が念仏を好まない時、心は比較的散乱している。念仏しながらテレビを見ることも、会話することも、妄想することもでき、多くの雑念が混入する。意根による念仏では、睡眠中にも念仏でき、夢を見ている時も、仕事中も、問題を思考している最中も、あらゆる行為の中で念仏が可能であり、念仏三昧が現れる。故に念仏三昧は必ず意根によって発動される。意根は一切時中、念々に念仏を続け、途切れることがなく、禅定を具え、身心に軽安の覚受が生じ、喜悦感を伴う。
ある人物が百万洪名念仏会に参加した際、一週間で百万遍の念仏を称えた。手には1080個の珠からなる数珠を繰りながら、一巡し終えるごとに108個の数珠を一つ捻っていた。このように左右の手で絶えず珠を繰り、口では絶え間なく仏号を唱えていた。同時にテレビも見られ、意見も述べ、他人の行動も観察し、時には怒りすら覚えるという、実に忙しない状態であった。しかしこのような念仏に何の意味があろうか。意根が常に縁を攀じていれば、意識は見せかけだけで念仏せざるを得ず、一点の専注もない。ここに見えるのは、意根を降伏させてこそ念仏の定が得られ、念仏三昧が得られるということである。禅定とは結局のところ意根を定めることであり、意識を定めても問題は解決しない。
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