為すとは、目的のため、要求のため、求めることである。有為とは求取あり、要求あり、造作あり、所得あり、所願あり、目的あり、心行あり、造作あり、我あり、四相あることを指す。無為とはこれらの心念なく、有為と相反する。
無所求の心は無為なり。無所得の心は無為なり。三界世間に心行なき心は無為なり。生じられた法にあらざるは無為なり。心量広大にして際限なき心は無為なり。煩悩なき心は無為なり。三界世間法を要せぬ心は無為なり。いかなる条件なく存在しうる心は無為なり。造作を欲せぬ心は無為なり。無我の心は無為なり。四相なき心は無為なり。有為なるは七識の世間法、無為なるは如来蔵の真如仏性なり。
如来蔵は無為の中にあって私なく衆生に奉仕し、三界一切法を運行するも、その心は無為なり。無為の中に有為あり、有為の中に無為あり。七識がある程度修され、初めて有為性より次第に無為性へ転じ、有為の中にありながら心は無為となり、漸く如来蔵と相応す。完全に無為となり、完全に相応する時、仏と成る。如来蔵この無為心のみが一切法を離れて存在しうる。七識心の無為は三界世間を離れず、無為の如来蔵をも離れず。しかるに如来蔵この無為法は三界有為法を離れ、単独に存在しうる。これ無余涅槃の時なり。無余涅槃において如来蔵は寂滅無為、一法も造作せず、清浄の極みなり。有為法を離れてもなお無為法如来蔵存す。故に祖師は曰く「天地に先んずる物あり、形無くして本より寂寥たり」と。
一切法は心によって存在す。既に一切法は有為と無為に分かれる故に、心もまた有為と無為の二種に分かる。有為法は有為の七識心と無為の如来蔵が共に変造し出すものなり。三界世間一切法、身口意行の如し。無為法もまた有為あるいは無為の七識心と無為の如来蔵が共に変造顕現するものなり。四禅定・滅尽定・無想定等、初果より四果に至るまで、明心見性、六七識の無為性の如し。ただ如来蔵この先天的無為法のみは、有為及び無為の七識心の出生顕現を要せず、如来蔵自身の出生顕現をも要せず。ただし顕現せんとすれば、なお七識心の世俗有為法の対照に依らざるべからず。
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