衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年08月17日    木曜日     第1 回の開示 合計3994回の開示

有為と無為とは何か

為とは、為すこと、目的、要求、求めることである。有為とは、求める心があり、要求があり、造作があり、得るところがあり、求めるところがあり、目的があり、心の行いがあり、造作があり、我があり、四相があることである。無為とはこれらの心の念いがなく、有為と相反するものである。

求めない心は無為であり、得ようとしない心は無為であり、三界世間に心の行いを持たない心は無為であり、生じられた法でないものは無為であり、心量が広大で際限のない心は無為であり、煩悩のない心は無為である。三界世間法を必要としない心は無為であり、いかなる条件もなく存在し得る心は無為であり、造作を欲しない心は無為であり、我のない心は無為であり、四相のない心は無為である。有為なるものは七識の世間法であり、無為なるものは如来蔵の真如仏性である。

如来蔵は無為の中にあって私なく衆生のために奉仕し、三界一切の法を運行する中で、心は無為である。無為の中に有為があり、有為の中に無為がある。七識がある程度修されると、有為性から次第に無為性へと転じ、有為の中にあって心の地は無為となり、漸く如来蔵に相応するに至り、完全に無為となり完全に相応する時に仏となる。如来蔵というこの無為心のみが一切の法を離れて存在し得る。七識心の無為は三界世間を離れず、また無為の如来蔵を離れることもできない。しかし如来蔵というこの無為法は三界の有為法を離れても単独で存在し得る。それが無余涅槃の時である。無余涅槃において如来蔵は寂滅無為となり、一法も造作せず、清浄の極みに至る。有為法を離れてもなお無為法たる如来蔵は存在する。故に祖師は説かれた:天地に先立つものあり、形なくして本来寂寥なり。

一切の法は心によって存在する。既然一切の法が有為と無為の両面に分かれるならば、心もまた有為と無為の二種に分かれる。有為法は有為なる七識心と無為なる如来蔵が共に変造したものであり、例えば三界世間の一切の法、身口意の行いがこれに当たる。無為法もまた有為あるいは無為の七識心と無為なる如来蔵が共に変造し顕現したものであり、例えば四禅定・滅尽定・無想定など、初果から四果に至る悟り、明心見性、六七識の無為性がこれに当たる。ただ如来蔵という先天的な無為法のみが、有為および無為の七識心によって生じられず、如来蔵自身もまた生じ変現しない。しかしこれを顕現させるには、なお七識心の世俗有為法の対照に依らねばならない。


——生如法師の開示
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