衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2023年08月14日    月曜日     第1 回の開示 合計3993回の開示

極楽浄土に往生するにはどうすればよいのでしょうか

各人の業力が異なるため、臨終の際に色身に現れる状態も異なります。業障の重い者は命終の時、四大が調和せず身体が硬直し、死後は三悪道で報いを受けます。業障が軽く、多くの善業を積んだ者は善法と心が相応じ、四大が調和して身体が柔らかく、死後は三善道に生まれ、臨終に苦痛を感じません。末法の世ではほとんどの者が煩悩が重く、善業少なく悪業多いため、臨終に苦痛を覚えます。善道に往生させるため、家族は助念を依頼し、業障を一部消滅させ福徳を増やそうとします。助念の過程で四大が調和すれば身体は柔らかくなります。これを以て往生が確定したと考える者もいますが、身体の柔軟化は単に業障が軽減され、善根と福徳が増したことを示すに過ぎません。

実際にあった事例として、ある女性居士の夫(仏教を信仰するも修行せず)が病没後、寺院の僧侶に七日間四組交替で途切れなく助念を依頼しました。次第に遺体が柔らかくなり、遂には全身が丸められるほどに。皆は極楽往生か天道往生を確信しましたが、火葬後七日目、夫は不機嫌な様子で夢中に現れました。女性居士の問いに「現状に満足せず苦痛を感じている。往生も天道転生も果たせず、人間としての再生もなし。仮に転生済みならば夢に現れ得ず、現れても喜びの表情であるべき」と答えました。

その後間もなく、自宅のベランダで物音がし、再び夫が帰宅する夢を見ました。これは死者が(1)極楽・天道・人間界への往生を果たさず(2)六道輪廻の再生もなく(3)中有の境界に留まっていることを示します。この事例が証明するように、他者による助念のみでは、本人の善根福徳が厚くなく極楽世界と心が相応しなければ往生は叶いません。助念者の功徳が極めて大きく業種を転換させ得る場合に限り、天道往生や人間再生が可能となります。

身体が柔らかくなっても善道往生できない理由は、助念がもたらす福徳増加と業種変化が往生に必要なレベルに達しないためです。往生のためには自らの修行により心を極楽世界と相応させる必要があります。わずかな日数の助念で死者の心を変えることは不可能です。修行は容易ではなく、生きている者が一生をかけても心を清浄にし得ない場合も多々あります。自ら修行せず他者の助念に依存するだけでは、極楽世界と阿弥陀仏への確固たる信心を築き、娑婆世界の業縁を断ち切るに至りません。往生の有無を正確に判断するには天眼通が必要で、蓮華台に坐す霊識や来迎する諸仏菩薩を視認し得なければ、推測の域を出ず信用に値しません。

修行の功徳は自ら修めた者だけが得るもので、親子間でも代替不可能です。『楞厳経』に説かれるように、阿難尊者でさえ釈尊の威神力に頼って修行を怠った結果、試練を受けることとなりました。功徳は外から与えられるものではなく、自らの心から生じるものです。死者の往生は本人の念仏功徳にかかっており、他者が代わりに修めることはできません。修行の功徳なくして相応の業果報は得られないのです。

現代の浄土門修行者には臨終一念に全てを託す傾向が見られますが、平時に修行不十分で心が変わらず業種が清浄でない場合、臨終一念は賭け同然で信頼性に欠けます。平時に自らを成就させてこそ、臨終に往生を確信できるのです。夢中の念すら制御できぬ者が、病苦と業障に苛まれ冤親債主の迫る臨終に一念を保つのは至難です。故に臨終のみに頼らず、平時より心を改め業障を消除し、福徳を積み、心念を制御する必要があります。

極楽往生を願うなら、福徳が極楽世界と相応しなければなりません。相応せずして共存は叶わぬ理です。往生先の環境と相応する福徳と業種が必要であり、心が極楽世界と相応せねば極楽世界を現出できず、どうして往生が叶いましょうか。あらゆる修行法門は究極的に心を修めるもので、心がどの程度変化し、どの境界と相応するかによって、相応する環境での共存と生存が可能となるのです。

——生如法師の開示
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