地上の菩薩が証得する唯識性とは、すなわち真如性である。真如性とは、一切の法の上に顕現する真実性・如如性・不動性を指す。我々がある法を見る際、それは法の表面的現象に過ぎない。しかしその法の本質とは何か。本質は全て如来蔵の種子の功能作用である。初地以上の菩薩は種子のわずかな作用を観察することができ、業種と七大種子を含む。これらの種子の作用は非常に深微であり、三賢位の菩薩では未だ証得できず、観察することも不可能である。
初地以上で如来の家に入った大菩薩たちのみが、如来蔵の種子の功能作用を観察できる。これを観察すれば、一切の法が如来蔵の属性、すなわち真如性を具えていると悟る。背後にある種子の功能作用から見れば、一切の法は真実の如如性、つまり真如性を具えており、これを唯識性とも称する。我々はあらゆる法がそれぞれ真実の法界であることを知る。これを一真法界と呼ぶ。よって一真法界を証得するこの智慧は、いかなる次元にあるのか。唯識種智の次元にある。初地・二地の菩薩から成仏に至るまで、証得する法はますます深く、広く、微細となる。初地以上の菩薩は唯識種智・道種智・真如智、そして一真法界の智慧を具えている。
ある者は「悟りを開くことは即ち真如三昧を証得することに等しい」と説くが、この見解には問題がある。悟りを開いたばかりの段階では、一切の法の真如性を証得することはまだ不可能であり、一つの無量劫を修行した後、三賢位を超えて初地に至って初めて一切の法の真如性を証得できる。これが無生法忍の智慧であり、無生忍の智慧を超越する。大乗であれ小乗であれ、無生忍は後に無生法忍を証得するための基礎であり、前者がなければ後者は存在しない。
二つの智慧の次元には大きな隔たりがある。無生法忍の智慧は無生忍を得た後、三賢位と禅宗の三関を経て、有余涅槃の状態にありながら無余涅槃を取る能力を具えつつ敢えて取らないという境地に至って初めて獲得される。この智慧の次元は非常に深遠であり、無生法忍の智慧を具えれば、世俗のいかなる領域においても、わずかな努力で全ての問題を解決できる。俗世のあらゆる側面は唯識性であり、唯識の法で解決可能だからである。
如来蔵の種子の功能作用から観察すれば、一切の法が唯識性であり、一真法界における法であることが分かる。よってこれらの法は全て空・無我であり、この時に法無我智を具える。無生忍は人無我智に属し、未だ法無我智の域には達していない。無生法忍を証得して初めて法無我智を得る。一切の法を究竟的に空尽くし、世間・出世間の法で証得せずということはなく、知らずということはないという境地に至れば、全ての問題が自然に解決され、解答不能な問題は存在しなくなる。この時、四智が円明となり、即ち仏となる。
18
+1