難しい問題に対する思考は、その深さによって異なる段階に分けられる。最も浅い段階は意識単独の思考であり、禅定がないため末那識(意根)は問題に慣れていないため参加できない。意識の思考過程には言語・文字・音声が混在し、心中に思考の相貌が現れ、その全過程は観察されやすい。これは意識自身の働きに対する内省作用である。言語には独り言や身振り手振りなどの身体言語を含み、文字には紙に書かれたものや心中の想像・描写を含み、音声には発声された音と無言の心の声を含む。この思考過程では思考を分散させることが可能で、心を専一にする必要がなく禅定も不要である。思考結果は末那識が承認しないため、参加していないことから確信が持てず、容易に覆され、実際の行動に結びつかない。
やや深い思考では末那識が参加し、浅い禅定が生じる。末那識と意識が共同で思考し、明暗相補いながら言語・文字・音声を用いる場合もある。意識は資料提供・事例提示・大まかな分析推論を担当し、末那識は一部の対象を捨象して専心あるいは半専心で思考する。末那識が思考に専念するため、あらゆる法を縁する余力がなくなり、必然的に一部の法を捨てる。これにより粗浅な禅定が生じ、縁する法と縁しない法は末那識が選択する。末那識が思考に参加しなければ縁する法を捨てる選択もなく、粗浅な禅定も生じない。末那識が捨てる法が多くなるほど禅定は深まり、思考への参加度も深まって結果を得やすくなる。
最深の思考段階は末那識単独の思量である。この時すでに深い禅定に入っており、意識の補助・伝達作用は完了し、末那識は問題を理解・熟知している。ほとんどの法縁を捨て去り、禅定中に独りで思考参究し、睡眠中も思量を続ける。結果を得れば意識が覚醒するや即座に理解し、睡眠を妨げない。短時間の禅定でも末那識が起動し、一方で末那識の思量プログラムが起動すれば他の法縁に気を配る余裕がなくなり、必然的に禅定が現前する。
このように末那識は主宰識として事を決断する。思量が始まれば他の事柄を処理できず、禅定も必然的に生じる。修行過程における禅定の有無は末那識が決定する。したがって迅速に禅定を修めるには末那識を多用し、末那識の思量を引き出すには禅定を深める必要がある。末那識思考が習慣化した者は、難題に遭遇するや直ちに末那識思考モードに入る。意識の導きを必要とせず、注意力が高度に集中し、言語・文字・音声を伴わず、集中力を維持できる。古来より思想の深遠な者、大智慧ある者は全て末那識思考を習慣とする者である。
末那識思考の利点は核心問題を直接解決できる点にある。疑惑がなく葛藤も後悔もなく、内心に愉悦が生じる。意識思考より透徹し、究竟し、徹底的で深遠な智慧を具え、心から認められ確信を得る。結果と永遠に相応し、記憶に頼る必要がない。これに対し意識思考の結果は容易に忘却され、想起困難となる。
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