念仏する時はただ念じればよく、仏の様々な功徳や効果を得るための方法などを考えずに済むため、消耗する脳力やエネルギーが少ない。念仏の時間が長過ぎなければ、普通に食事を摂っていれば疲れを感じることはあまりない。ただし意根で念仏を始めたばかりの頃は不慣れなため多少の心遣いが必要で、疲れを感じやすい。念仏が次第に三昧の境地に入り、禅定が深まると気血の巡りが良くなり、エネルギー補給が十分に行き渡るため、疲労感は消え、むしろ身体は軽安となり精神は愉悦に満たされる。三昧の状態ではエネルギー消耗が極めて少ない。
意根で問題を思考するのは念仏とは異なり、考える際には頭を使う必要があるため、脳力とエネルギーの消耗が激しくなる。十分なエネルギー供給がなければ疲労を感じる。参禅時には主に意根による参究思量が行われ、神経系統を動員する必要があるためエネルギー消費が多く、非常に疲労を覚える。そのため禅僧は食事量が増え、頭脳労働者の食量も多めとなり、一定時間ごとに休息を取らなければ疲労が蓄積する。ただし深い禅定に入っている時は気血が充足しているためエネルギー補給が追いつき、疲れを感じにくい。浅い禅定では疲れやすい。参禅が深い三昧境地に至ると、気血の巡りが良くなり身心が軽安愉悦となるため、疲労感は生じない。
意根による思量はエネルギーを多く消耗し、意識による思考はエネルギー消費が少ない。意根の思量は大脳神経系統を動員する必要があるためエネルギーを消耗し、疲労感を催す。全身の神経系統は意根によって調節されており、意識では制御できない。そのため意識による思惟は比較的軽く、たとえ散乱して様々なことを考えても疲れを感じず、多くの人は意識を用いることを好み、深い思考参究を避ける傾向がある。
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