衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年07月31日    月曜日     第1開示 合計3987開示

法無我の真実義

法無我は、地上の菩薩が証得する唯識の法の甚深なる智慧の境地であり、五蘊を取り巻く一切の法において、次第に一部の法は我ならず我性なきことを証得し、続いて大部分の法は我ならず我性なきことを証得し、遂には全ての法が我ならず我性なきことを証得して、究竟の仏果を成就するものである。衆生は一切の法に一定の実体性があると見なすため、心に執着が生じ、法執が生まれる。地後の菩薩は甚深なる唯識の種智を有し、現前に一部の法や大部分の法が如何にして如来蔵から出生し執持されるかを観察できるため、三界世間の一部あるいは大部分の法を実体的な自性有るものとは見做さず、こうして一部の法無我と大部分の法無我を証得する。

地前の菩薩と凡夫の衆生は、三界世間の一部及び大部分の法の由来と実質を現前に観察する能力がないため、心の中でこれらの法に一定の実在性と我性があると見なし、宇宙器世間を宇宙器世間そのものと認識する。器世間が全て如来蔵の属性であり、如来蔵の功能作用であり、如来蔵の種子によって構成されていることを微塵も観察できないため、法に我ありと見做し、法我執を生じる。衆生は自らが認識する一切の理法を実有と見なし、一切の理法は一切の理法そのものであると考える。これらの理法の実質が何であるかを微塵も観察できず、全てが如来蔵の属性であり、いわゆる自体性がないことを知らないため、これらの理法に我性があり自己に属すると見做し、こうして法我執を生じる。

もし衆生が現前に宇宙器世間が全て如来蔵の種子によって構成され、如来蔵の属性であり、本質は如来蔵そのものであると観察できれば、衆生はもはや宇宙器世間を宇宙器世間とは見做さず、宇宙器世間の上に如来蔵の影を見、如来蔵の功能作用を認めるようになり、法我見と法我執がなくなる。もし衆生が現前に六根六塵が如来蔵の種子によって構成され、如来蔵の属性であり、本質は如来蔵そのものであると観察できれば、衆生はもはや六根六塵を六根六塵そのものとは見做さず、六根六塵の上に如来蔵の影を見、如来蔵の功能作用を認めるようになり、こうして法我見と法我執がなくなる。(六根六塵は一切の法の一部であり、これも法である。)

もし衆生が現前に一切の規則・法則・世俗諦・勝義諦が全て如来蔵の種子によって形成され、如来蔵の属性であり、本質は全て如来蔵であると観察できれば、衆生はもはやこれらの一切の規則・法則・世俗諦・勝義諦をそれら自体とは見做さず、これらの法則や諦理の上に如来蔵の影を観察し、如来蔵の功能作用を認めるようになり、こうして法我見と法我執がなくなる。故に地上の菩薩が証得する一切法無我とは、一切の法が如来蔵ではないという意味ではなく、むしろ逆に、一切の法の実質は全て如来蔵であり、それ自体の自性はなく、一切の法は全て五蘊の我性がなく、空・幻化・不実・壊滅性であることを指す。ここでの「我」とは世俗の五蘊仮我と七識仮我を指し、如来蔵を指すものではない。

「一切の法は我ならず、我と異ならず、相互に内在せず」という意味は、一切の法が如来蔵ではなく、如来蔵と異ならず、如来蔵と混合しないという意味ではない。むしろ逆に、一切の法の本質は全て如来蔵であり、一真法界における法であり、全てが真実であり、真実不変の法であることを指す。いったい誰が一切の法を「我」と「非我」と見なすのか、この「我」とは誰を指すのか。誰が一切の法を執取して「我」とするのか、この「我」とは誰を指すのか。もちろん意根と七識が一切の法を執取して「我」とし、自己とし、自己の所有とし、自己の所用とするのである。故に唯識の種智を修め、一切の法は我ならず我所有ならざることを証得した後は、もはや一切の法を「我」や「我の所有」として執取することはなくなる。

——生如法師の開示
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