慚愧とは、自らが行った悪事や過ち、不十分なことに対し、心に疚しさや申し訳なさを抱き、不安を覚えることである。この二字の左側はいずれも「りっしんべん」で心を表し、右側を合わせると「鬼を斬る」となる。鬼は悪を象徴し、心の悪を断ち切れば清浄となり善となる。故に慚愧は五十一心所法において善心所に属し、無慚無愧は不善心所、即ち悪心所に属する。多くの人の心には慚愧の心所法がなく、皆無慚無愧である。もし慚愧心所と相応しなければ、人として未完成で未熟であり、仏法を学んでもまだ修得しておらず、成果を生み出していないことになる。
慚愧心所法を生起できるのは智慧ある人である。自らの行為が不十分で調和を欠き、過失があり、時に過ちや悪事を犯し、人を陥れ他者の利益を損なったことを内省できるからこそ智慧があると言え、煩悩がないのである。智慧がなければこのような自覚が生じず、どれほど過ちを犯しても自己を省みず、無自覚無認識で無慚無愧のまま自己に固執する。結果として因果が巡って来た時、千倍万倍の悪報を受けることになる。これほどの悪報を招く行為は、明らかに智慧を欠いた行いである。仏道修行者は修行過程において因果を明らかに識別し、常に自心を省みて速やかに煩悩を発見し、慚愧心を生起させて過ちを改め、不良なる習気を正し、人格を完成させ、智慧を具備して初めて悟りを証得する資格を得る。これにより凡夫から聖者へ転じ、大いなる利益と安楽を得るのである。慚愧心所法を具えることもまた修行の果徳である。
華厳経に次の一節がある:菩薩は慚愧の上服をまとうべし。上服とは最上の衣、最も尊い衣を指す。我々は皆、自らを検証すべきである。慚愧の上服を身にまとっているかどうかを。常に自心を省みて、今どのような煩悩があり、どのような良からぬ心の働きがあるかを観察しなければならない。修行とは自らを修めることであり、自らの不善心と煩悩を改めることである。他人の修行を監視し続けることではない。自らが修養を整えていない者が、他人を論じ監督することはできないのである。
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