衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年07月29日    土曜日     第1開示 合計3986開示

慚愧心所法とは何ですか

慚愧(ざんき)とは、自らが行った悪事、過ち、不十分なことに対して、心に疚しさや謝罪の念を抱き、不安を感じることを指します。この二文字はいずれも左側に立心偏(りっしんべん)を持ち、心を表しています。右側を合わせると「鬼を斬る」となり、鬼は悪を象徴します。心の中で悪を断ち切れば清らかになり、善となります。したがって、慚愧は五十一の心所(ごじゅういちのしんじょ)の中で善心所に属し、無慚無愧(むざんむき)は不善心所、すなわち悪心所に属します。多くの人の心には慚愧の心所がなく、無慚無愧の状態です。もし慚愧の心所と相応していなければ、人として欠陥があり、まだ合格とは言えず、仏法を学んでも十分に修められておらず、成果を得ていません。

慚愧の心所が生じるのは、智慧ある者の証です。自らの行いが不十分で円滑でなく、手落ちがあり、さらには過ちや悪事を犯して人を陥れ、他人の利益を損なったことに気づくことができるからです。こうした点を自省できるのは智慧がある証であり、煩悩がない状態です。智慧がなければこのような認識は生じず、どれほど過ちや悪事を重ねても自らを顧みず、無自覚で無知、無慚無愧のまま、相変わらずの自分でいます。結果として因果が巡ってきたときには、千倍万倍の悪報を受けねばなりません。これほどの大悪報を招くことは、もちろん非常に智慧のない行為です。仏法を学ぶ修行者は、修行の過程において因果を明らかに識別し、常に自心を反省すべきです。自らの煩悩を素早く見つけ、慚愧の心を起こして即座に過ちを改め、不良な習気を正し、人格を完成させ、智慧を具えて初めて、見道(けんどう)して悟りを証し、凡夫から聖者に転じ、大いなる利益と安楽を得る資格が生まれます。慚愧の心所を具えることもまた、修行の果徳(けとく)なのです。

華厳経(けごんきょう)に次の一節があります。菩薩は慚愧の上服(じょうふく)をまとうべし。上服とは最上の衣服、最も貴い衣服を指します。私たちは皆、自らを省みるべきです。慚愧の上服を身にまとっているだろうかと。常に自心を反省し、今どのような煩悩があり、どのような良くない心の動きや行為があるかを問い直す必要があります。修行とは自らを修めることであり、自らの不善の心と煩悩を改めることです。毎日他人の修行を観察し、監督することではありません。自分自身が十分に修められていないなら、他人を論じたり監督したりすることはできないのです。

——生如法師の開示
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