一切の法はことごとく真如であり、すべて如来蔵より出生し保持されるものであり、如来蔵性・真実性・如如性を具えている。一切の法は如来蔵より出生したものであるから、如来蔵が七大種子によって顕現させたものであり、ことごとく大種性自性を具え、真実にして如如である。そして如来蔵およびその種子は、いかなる法の生滅変異にも随って動転することなく、真実不変であるから、これもまた真如と呼ばれ、真如性を具える。如来蔵より出生した一切の法は実質的に如来蔵の性質を具えているから、これまたすべて真如である。これが「法法皆真如」の意味である。
如来蔵はただ万物を絶え間なく生滅変化させるだけで、自らは変化しない。もし如来蔵も変化するならば、それは生住異滅の法となり、これは極めて大きな過失を有することになる。もしそうであるならば、問題が生じる。如来蔵はいつどのように生じたのか。生じていない時には、一切の万物万法は存在せず、虚空すらなく、それはいかなる状態か。衆生の業種はどこに存在するのか。意根はどこにあるのか。もし如来蔵が滅するならば、どのように滅し、何によって滅するのか。滅した後、万法の種子はどうなるのか。衆生の果報はなお存在するのか。
如来蔵はどこにも住することなく、もちろん万物の中に住するのでもない。もしそうでなければ、万物が滅した後、如来蔵もまた滅することになるのではないか。万物を少しずつ分割していけば、如来蔵を見出すことができるのか。これは根本的に不可能である。一切の万物の生成から滅尽まで、四大種子の和合運作の過程であり、すべて如来蔵が調動し保持した結果である。
一切の法の中に、如来蔵の運行の跡を見出すことができる。その跡とは七大種子によって形成された心法と色法であり、すべて如来蔵自身のうちにある原材料である。ゆえに法を見ることは即ち如来蔵を見ることであり、満目の青山に別法なく、全体が即ち一つの真実の法界――不生不滅の如来蔵である。毫厘微塵たりとも如来蔵の外に立つことを許さず、すべては如来蔵心中の法であり、また如来蔵の体・相・用である。衆生は如来蔵の中に生きているが、実際には衆生も存在せず、すべて如来蔵である。いずれの法が如来蔵でないと言えようか。いずれの法が如来蔵の外に脱して独存し得ようか。すべて不可能である。
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