衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年07月20日    木曜日     第1 回の開示 合計3980回の開示

俗諦にとらわれて真諦を見ず――無道

青い苗を手に田んぼに植え終え 頭を下げれば水に映る空が見える。心の清らかなことがすなわち道であり 退くことが実は進むことだった。

この四句が表すのは全て特別で形のない道、如来蔵の働きである。悟りを得ぬ者は心を全て境界に入れ込み、その意境を考え、人を見て境を見て事を見、景色に触れて感慨にふける。実は境界を考えるのは大いなる過ち、実は境界など考えるべきものはない。この詩は何らの境界も表さず、人も境も事もなく、全てはただ一文字:道である。問う:道はどこにあるか?人と境が接する全ての事柄にあり、人にも境にもあり、遍く存在する。しかし凡夫は道を見ず、ただ俗相を見る。金沙が空を覆い、目に入れば翳となる。金沙は目で見るものにあらず、見れば全ては砂塵、心で感じれば全ては金となる。

或る者が言う:こう言うのは悪取空ではないか?これは悪取空ではない。悪取空は如来蔵という道すら認めず、一切の法を空じ、何もなく、因果もなく、因も果も戒律もなく、身口意の行いに何の顾忌もないことを言う。この四句が示すのは、人も境も事もないことこそが空ならざる道・如来蔵であり、人境事に執着することこそが空に執着することである。凡夫は未だ道を証得せざる故に、如何なる見方も正しからず、人境事に執着する時、如何にして如来蔵を見て証得できようか?

空とは大小乗の指し示す所、色受想行識の五蘊の人空、内外六塵の境界空、人も境もなければ事もない。これらの虚妄の法を空じてこそ、空ならざる如来蔵を見ることができる。空の法に執着すれば、慧眼が覆われ、如何にして空ならざる如来蔵を見ることができようか?

——生如法師の開示
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