証果は必ずしも禅定の中で得られるものではないが、意根が薫染され成就するためには、必ずしも禅定が必要ではない。しかし意根への善法の薫染は禅定中に容易であり、悪法の薫染には禅定を要しない。なぜなら意根自体が悪法に満ち、悪法と相応するため、悪法に触れれば自ずと薫染され、特に長期にわたれば意根は確実に習性となる。無始劫以来、意根は無明が深く、常に悪法の中にあり、煩悩の汚染は極めて甚だしく、自力での解脱は困難で、他力による救済も容易ではない。汚染と煩悩を除き、善法を薫修して心を善に変えることは、短期間で成し遂げられることではない。
無始劫の汚染は本来、無始劫の善法薫染によって初めて悪を善に転じるが、この過程はあまりに長く、かかる長期の善法環境も存在しない。ゆえに相対的に短期間、例えば一劫・一小劫・数百万年・数十万年、あるいは数百年・数十年で薫習成就せねばならない。かくも短期間で成就するには禅定が必要であり、期間が短いほど深い禅定を要する。禅定中は心が専一となり、思惟が深微に徹し、智慧が生じ、意根は理を速やかに理解して薫染を受け入れ、善法が成就しやすい。禅定がなければ心は散乱し、意根の思量は透徹せず、智慧も生じず、善法を受け入れられず、観念も改まらず、依然として悪の心所法に従って行動する。
証果は善法薫染よりさらに困難であり、より深微な智慧を要し、思想と観念を徹底的かつ反復なく変容させる必要がある。これにはより深く長久な禅定が必要で、そうして初めて意根が専一に無我の理を思量し、理論を透徹して理を証得できる。禅定は心を不動・少動に導き、心が動かなければ煩悩を降伏し、理に専念して智慧を生む。禅定がなければこの功徳は得られない。無始劫以来、意根は我執と煩悩に慣れ、短期間で習性を改め煩悩を降伏することは確かに容易ではない。特殊な方法と途、極めて強固な意志力、大いなる願力と忍耐力がなければ、我見を断ち煩悩を除くことは不可能である。
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