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煩悩无尽誓願断
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日常法話

2023年07月15日    土曜日     第2開示 合計3977開示

諸法には主なく作者もなし

仏が説く十善業道経の原文:諸法は集起する。畢竟して主無し。我無く我所無し。各々業に随うといえども。現じる所は異なる。而も実に中に於いて。作者無し。故に一切の法は。皆不可思議なり。自性は幻の如し。

釈:世間の一切の法の積集生起は、畢竟して主宰者無く、主人無く、また我性も我所性も無い。これらの法はそれぞれ異なる業種と業縁に随って生ずるが、現じる法相は異なる。而してこれらの法が現じ滅する過程において、確かに造作者は存在せず、故にこの一切の法は皆不可思議であり、法の自体性は幻化の如くである。

法集とは、業行が召集されて業種を形成し、業種が成熟した後、業縁の補助によって諸法が出生することである。而して法の出生には、誰かがその中で主宰し、諸法の生住異滅を操るような者はおらず、掌握者も存在しない。これらの法には我性が無く、無我であり、また我の所有にも属さない。例えば色蘊の集起は、誰が色蘊を集起させたのか? 如来蔵には集起の心行が無く、色蘊を主宰せず、意根もまた幻化であり、色蘊を主宰せず、業種業縁もまた幻化であり、いずれも集起の心は無い。然るに色蘊は理由も無く現じている。色蘊は私であろうか? 私ではない。何故なら自主性が無く空であるから。色蘊は私の所有物であろうか? 私の所有にも属さない。何故なら空であるから。受蘊・想蘊・行蘊・識蘊も皆同様であり、六根・六塵・六識もまた同様である。

甲・乙・丙・丁の衆生は、それぞれの業行・業種に随って六道輪廻に現じているが、現じる相貌・身分・地位・福德・種族などは各々異なる。然るに確かに現相の中に、一人の造作者も存在せず、誰かが衆生の六道輪廻相を造り出したわけではない。故に甲の天堂相は不可思議であり、天相の自体性は幻の如く化したもので、実質的な天人は存在しない。乙の人相は不可思議であり、人の自体性は幻の如く化したもので、実質的な人は存在しない。丙の地獄相・丁の餓鬼相も皆同様に不可思議であり、自性は幻の如く化して実質が無い。

これらの法は意識で理解するのはさほど難しくないかも知れないが、意識は大まかな状況しか理解できず、内的な詳細は知り得ない。つまり意識は具体的な原因や法の具体的な運営状況を知ることができない。あたかも霧の中から花を見るようにぼんやりとして、ほの見える程度である。禅定の中で意根を以て深く思量して初めて悟り透し、一切の細部を余すところなく覧め、その所以を知る。これにより法を実証し、法の底源を徹して、再び霧の中から花を見るような曖昧さや、靴の上から痒い所を掻くような隔靴掔痒の状態とはならなくなる。如何なる法に対しても、意根が思量すればするほど興味が深まり、探明しようとする思いが強まり、智慧が増し、禅定が深まる。人はまるで痴人の如く陶酔するに至る。これが真理を探究する楽しみである。意識の浅薄な解を捨て去り、意根の深い思を学び会得すれば、ますます智慧が深まり、頭脳の思考と論理は益々明晰となり、人はますます沈着で聡明となる。一切の難題はもはや難事ではなく、全てが自然に解決されるであろう。

——生如法師の開示
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