如来蔵は本来無我ですが、なぜ無我なのでしょうか。この問題を解明することは我見を断つ上で大いに役立ちます。「解明」という言葉を用いるのは、如来蔵を証得していない段階では、如来蔵の働きを眼前に観察できず、一切法の運営過程における如来蔵の心性と知覚を現前に観ることができないからです。しかし如来蔵の心性が無我であるには必ず原因があり、第七識が我を有するにも原因があります。その原因とは、第七識が法を見るやいなや世俗の法相に堕し、世俗法の功用と好悪を見る点にあり、これが無明です。如来蔵には無明がなく、一切法を見てもその世俗的法相を見ず、世俗的功過を見ないが故に無我無求なのです。では第七識が我見を断つにはどうすればよいのでしょうか。
修行方法は明らかに示されているのですが、各人が具体的に着手する因縁条件が具わらないため手が下せず、着手する場所が見つからないと感じるのです。例えば私の場合、常に「さらに専心自修して自己を高めよう」と考え続けましたが、二年考えても無駄で、さらに二年経っても実行できません。因縁条件が具わらず、弘法の事業を放下できず、気にかけることが多く、以前のように独り身で自由気ままに行動できた頃とは違います。今は重荷が多すぎるのです。他の人もそれぞれ事情があり、物事を整理できず、一心不乱に継続して修行できません。この湯がなかなか沸騰しないように、因縁が具わらないのは福徳が不足しているため、戒定慧が増進しないのです。よって福を修めることは極めて重要で、福徳は自らの資糧と道糧です。兵馬未だ動かずして糧秣先に行くというように、多くの人は糧秣すら不足しており、いかにして修行に励めましょうか。
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