六識がないとき、如来蔵はまだ法を見るのか?六識がないとき、他の法もまた滅することはなく、法が存在する限り、如来蔵は見る。なぜなら如来蔵は決して一切の法から離れることがないからであり、法があれば如来蔵の執持作用がある。第七識である意根は如来蔵の見分なのか?意根は如来蔵の見分ではない。意根がないときでも、如来蔵はなお業種を見ることができる。如来蔵の見る法は意根の見る法よりも多く、意根が見ない法も、如来蔵は単独で見る。無余涅槃の中でも、如来蔵はなお法を見ることができ、種子を見ることができ、五遍行心所法は通常通り運行する。意根と如来蔵の目は異なるため、見られる相も異なり、一つは世俗法相を見、もう一つは非世俗法相を見る。
六識は如来蔵の見分ではない。如来蔵は六識を通じて一切の法を見ることはない。如来蔵には自らの本体としての見分があり、それは五遍行心所法の作意・触・受・想・思である。如来蔵が法に対して作意を生じた後、法に触れ、法に触れた後には領受して受け入れ、その後には了別し、了別した後には法を知る。これが如来蔵の見分であり、如来蔵が法を見る形式である。
しかし如来蔵が見る法の内容・内実は六識が見る内容・内実とは完全に異なる。六識の見る法はすべて六塵の相貌の中に落ち込み、執取するのは色・声・香・味・触・法の相貌であり、これは世俗法である。一方、如来蔵の見る法は世俗法の相貌の中に落ちることはなく、色・声・香・味・触・法ではなく、意識は如来蔵の見るものを理解することができない。したがって如来蔵の見分は五識・六識ではない。しかし六識が法を見た後、如来蔵の運行に対して一定の作用があり、この作用は六識の見が意根に影響を与えることに現れ、意根が影響を受けると、それに応じた抉択を生じ、如来蔵は意根の抉択に依って次の段階の法を運行し、新しい法が生み出されることになる。
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