衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年07月05日    水曜日     第1開示 合計3971開示

阿羅漢の如来蔵は異熟識と呼べるでしょうか?

アーラヤ識、異熟識、無垢識、これら三つの名称は、いずれも第八識である如来蔵を指す。名称が異なるのは、内包する業種が異なるためである。業種の変化は、生死をもたらす無明が相当程度軽減されたか、あるいは滅尽したことを示している。このうちアーラヤ識という名称は分段生死が存在し、悪業の種子が依然として重く多い状態を表す。分段生死がなくなり変易生死のみが残る段階、すなわち煩悩の現行が完全に断じ尽くされた時、悪業の種子は消滅し、三界の分段生死を招かなくなる。これが小乗の四果阿羅漢の境地であり、この時の如来蔵を異熟識と呼ぶ。

阿羅漢は煩悩を断じ尽くしたため、もはや分段生死がなく、すなわち三界における六道輪廻は存在しない。六道で輪廻することはないが、六道を超えた聖者としての身分と修道の道場を持ち、この身分で三界において修行を続け、成仏に至るまで三界の外に出ることはない。したがって阿羅漢が煩悩を断じ尽くすと、六道輪廻の分段生死から解脱し、アーラヤ識は異熟識と改名される。その解脱の境地は八地菩薩に相当するが、習気はまだ断ち始められていない。八地菩薩は習気を断じていてもまだ完全には断じ尽くしておらず、断じ尽くされていないため変易生死が残る。この段階の如来蔵もまた異熟識と呼ばれる。

このことから明らかなように、生死は煩悩と煩悩の習気に由来する。修行の方向性は煩悩を断じ、習気を断つことにある。大乗の修行であれ小乗の修行であれ、目標は同じである。ただし小乗の修行では煩悩を断じ尽くす段階までしか到達できず、習気を断つことはできない。そのためさらに大乗を学び、一切の無明を断じ尽くして仏果を成就することを目指す必要がある。なぜなら小乗の法理は深さが足りず、また究極的ではなく、修行者が習気を断つことを指導できないからである。一方、大乗の法義は次第に深まり、微細な点に至るまで漏れなく、修行者が一切の無明習気を断じ尽くし最終的に成仏することを指導できる。この道理を理解した後、仏法の学びと修行においては、常に自らの心性を点検し反観し、煩悩が軽減したか、心が少し清浄になったかを確認すべきである。学んだ理論を究極と見なしてはならない。理論は煩悩と習気を断つために奉仕するものであり、習気が断じ尽くされれば、一切の理論は用をなさなくなる。

総括すると、小乗の極果は大乗の八地菩薩の解脱智慧の証量に相当するが、八地菩薩の甚深なる唯識の種智はなく、転識成智も行われていない。智慧の面では、阿羅漢と八地菩薩の差は極めて大きく、初地菩薩とも大きな隔たりがある。大乗の無生智慧は三賢位の菩薩とも大きく異なる。もし修行者が小乗の解脱のみを修め大乗を修めないならば、その解脱は依然として不究竟であり、生死の大事は結局本当に解決されていない。涅槃に入ることができても、依然として生死が残っているのである。

——生如法師の開示
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如来蔵の見は第六識と第七識の見とは異なります

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