衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2023年07月09日    日曜日     第1開示 合計3973開示

なぜ如来蔵は無我でありながら、第七識は有我なのか?

如来蔵は本来、無我でございます。なぜ無我なのか、この問題をはっきりと分析することは、我見を断つ上でも大いに助けとなります。分析という言葉を用いるのは、如来蔵を証得していない段階では、如来蔵の働きを眼前に観察することができず、あらゆる法の作用過程における如来蔵の心性と知覚を眼前に観察できないからでございます。しかしながら、如来蔵の心性が無我であることには必ず理由があり、第七識が我を持つことにも理由がございます。その理由とは、第七識が法を見るとすぐに世俗の法相に落ち込み、世俗の法の機能や好き嫌いを見てしまうことであり、これが無明でございます。一方、如来蔵には無明がなく、あらゆる法を見てもその世俗の法相を見ず、世俗の功過を見ないため、無我であり、また求めることもないのでございます。では、第七識が我見を断つにはどうすればよいのでしょうか。

修行の方法はすべて明らかに示されているのでございますが、各人が具体的に取り組む因縁条件が整わないために、手を下せず、手の付け所がないと感じてしまうのでございます。例えば、私はいつも「もっと専心して自修し、さらに自分を高めたい」と思い続けましたが、二年考えても無駄であり、さらに二年経っても実行できませんでした。因縁条件が整わず、弘法のことを放っておけず、気にかかることが多く、以前のように独り身の気楽さで好きなことができる状態ではなくなったからでございます。今はそうはいかず、負担が多すぎるのでございます。他の方々も同様で、それぞれに困難な事情があり、物事が片付かず、心を一途に集中して継続的に努力することができません。このやかんの水がぬるま湯状態のままで、いつまで経っても沸騰しないのでございます。因縁が整わないのは、結局のところ福徳が不足しているためであり、その結果、戒・定・慧が向上しないのでございます。ですから、福を修めることは依然として非常に重要でございます。福徳とは、自らの資糧(修行の糧)であり道糧(道の糧)でございます。兵馬未だ動かずして糧秣先んず(戦いの前に兵糧を準備せよ)と言いますが、多くの方は糧秣すら不足しており、あるいは全く糧秣がない状態でございます。それでは、どうやって努力すればよいのでしょうか。


——生如法師の開示
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如来蔵の見は第六識と第七識の見とは異なります

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縁起法と非縁起法の違い

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