縁起法は六識・六塵・五根が散壊しやすいため、縁起法は壊れやすく、変わりやすく、断ち切りやすい。非縁起法である意根は散壊しにくく、壊れにくく、変わりにくく、断ち切りにくい。意根の心性を変えることは困難であるがゆえに、修行は容易でなく、解脱も容易ではないと言われるのである。
一方、非縁起法である如来蔵は永遠に散壊せず、変異せず、改変できず、断除できない。したがって修行の着手点として、如来蔵を修行したり改変したりする必要はなく、ただ如来蔵が真実であることを証得し、五蘊世間の一切の法が仮のものであることを理解すればよい。その後自ら目撃するように、一切の法は如来蔵の産物であり、すべて如来蔵に依存して初めて存在しうることを知る。如来蔵の前では一切の法は隠蔽されて現れない。こうして一切の法を再び執取することはなく、如来蔵すらも執取せず、心は大空となり、空空となる。これが大解脱である。
禅定がない時は、一切の法を一切の法として見る。禅定と智慧がある時は、一切の法を一切の法ではないと見、法の真実の相貌を見、法の実質と根本を見ることができる。その後無明は滅除され、心は変容し、解脱を得るのである。
18
+1