衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2023年07月07日    金曜日     第1 回の開示 合計3972回の開示

如来蔵の見は第六識と第七識の見とは異なります

六識が無い時、如来蔵はまだ法を見るのか。六識が無い時、他の法もまた滅せず、法の存在がある限り、如来蔵は見る。なぜなら如来蔵は一切の法から離れたことがなく、法があれば如来蔵の執持作用があるからである。第七識の意根は如来蔵の見分か。意根は如来蔵の見分ではなく、意根が無い時でも如来蔵は依然として業種を見ることができる。如来蔵の見る法は意根の見る法より多く、意根が見ない法も如来蔵は単独で見る。無余涅槃においても如来蔵は依然として法を見、種子を見、五遍行心所法は平常通り運行する。意根と如来蔵の眼は異なるため、見る相も異なり、一つは世俗の法相を見、もう一つは非世俗の法相を見る。

六識は如来蔵の見分ではない。如来蔵は六識を通して一切の法を見ない。如来蔵には自らの本体の見分があり、それは五遍行心所法の作意・触・受・想・思である。如来蔵が法に対して作意を生じた後、法に触れ、法に触れた後に領受して受け入れ、その後で了別し、了別した後に法を知る。これが如来蔵の見分であり、如来蔵が法を見る形式である。

しかし如来蔵の見る法の内容と六識の見る内容は完全に異なる。六識の見る法は全て六塵の相貌に堕し、執取するのは色声香味触法の相貌であり、これは世俗法である。如来蔵の見る法は世俗法の相貌に堕することなく、色声香味触法ではなく、意識は如来蔵の見るものを理解できない。よって如来蔵の見分は五識六識ではない。しかし六識が法を見た後、如来蔵の運作に対して一定の作用があり、この作用は六識の見が意根に影響を与えることに現れる。意根が影響を受けると、相応の抉択が生じ、如来蔵は意根の抉択に依って次の段階の法を運行し、新たな法が生じる。

——生如法師の開示
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