阿頼耶識、異熟識、無垢識、これら三つの名称はすべて第八識如来蔵を指す。名称が異なるのは、蔵する業種が異なるためである。業種の変化は、生死をもたらす無明が相当程度軽減されたか、あるいは滅尽したことを示す。阿頼耶識という名称は分段生死が存在し、悪業の種子が依然として重く多い状態を表す。分段生死がなくなり変易生死のみ残る時、つまり煩悩の現行が完全に断じ尽くされ、悪業の種子が消滅し、三界の分段生死を感召しなくなった段階、これが小乗の四果阿羅漢の境地であり、この時の如来蔵を異熟識と呼ぶ。
阿羅漢は煩悩を断じ尽くしたため、もはや分段生死がなく、つまり三界における六道輪廻から解脱する。しかし六道外に聖者の身分と修道の道場を有し、この身分をもって三界で修行を続け、仏陀に至るまで三界を離れない。故に阿羅漢が煩悩を断じ尽くすと、六道輪廻の分段生死から解脱し、阿頼耶識は異熟識と改名される。その解脱の境地は八地菩薩に相当するが、習気は未だ断じ始めていない。八地菩薩は習気を断じつつも未だ尽きず、尽きない故に変易生死があり、その如来蔵もまた異熟識と呼ばれる。
これにより、生死は煩悩と煩悩習気から生じることがわかる。修行の指針は煩悩を断じ、習気を断つことにあり、大乗の修行も小乗の修行も目標は同じである。ただし小乗の修行では煩悩を断じ尽くす段階に至るのみで習気を断つことはできず、大乗を継続修学して一切の無明を断尽し仏果を成就せねばならない。小乗の法理は深遠さと究竟性に欠け、修行者を指導して習気を断つことができないが、大乗の法義は次第に深まり微細に至り、一切の無明習気を断尽させ仏陀となることができる。この理を明らかにした上で、仏法修行においては常に自己の心性を検証し、煩悩が軽減したか、心が清浄さを増したかを観察すべきである。学んだ理論を究竟と見做してはならず、理論は煩悩と習気を断つための手段に過ぎない。習気が断尽すれば、一切の理論は用をなさなくなる。
総じて、小乗の極果は大乗八地菩薩の解脱智慧の証量に相当するが、八地菩薩の甚深なる唯識種智を持たず、転識成智もなされていない。智慧の面において阿羅漢と八地菩薩の差は極めて大きく、初地菩薩とも大きな隔たりがある。大乗の無生智慧は三賢位の菩薩とも大きく異なる。もし修行者が小乗の解脱のみ修め大乗を修学しなければ、その解脱は依然として不究竟であり、生死の大事は結局真に解決されず、涅槃を得ながらもなお生死が残るのである。
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